『愛していると云いたくて』




 〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋をしごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍師だったのです〜



 天の海に
 雲の波立ち
 月の船
 星の林に
 漕ぎ隠る見ゆ
     ―――詠み人知らず



 セカンド・シーズンの最終回は特別拡大枠で2時間スペシャルの放送となった。
 9時に始まり11時にテレビドラマは終了し、そろそろ日付も変わろうかと云う頃合いになっても、旦那様が帰宅しないのは、いつものこと。
 最後まで繋がらなかった携帯電話が繋がって、離婚の危機を迎えていた二人の仲が修復されてめでたしめでたしで終わったソープオペラの幕切れの余韻に、奥様はまだ少し、浸っているようだった。
 規則正しく早寝早起きな猫たちは、リビングの窓際に置かれた猫ハウスでひとかたまりになって天下泰平に眠っている。
 猫ならば、折り重なるようにひとつところで眠っていてもいいけれど……
「ソファ…二人掛けのを、買おうか」
 この家のなかで、身を寄せ合うことができるのはベッドだけと云うのも、よく考えたなら、あんまりな状況だ。
 隣りあわせのしあわせなど、これまでに、考えもしなかった……
 毎年の健康診断で肝機能の低下を指摘されているにもかかわらず、それでも生活態度を改めようとしない郭奉孝は、星の意匠がトレードマークの缶ビールを愛飲していた。
 肝硬変が怖くて酒が飲めるか。
 至極もっともな言い分であるが、一週間に十日飲んでいるような郭奉孝は、十分立派なアルコール中毒予備軍と云えた。
 旦那様が心配しないはずもなく…
 ことごとに忠告をするのだけれども、奥様は、柳に風と受け流し、冷蔵庫には缶ビールを切らしたことがない。



 お風呂上り、100%オーガニックコットンの、バスローブを身にまとい、お気に入りのテレビドラマ『奥様は軍師』を見終えたあと、チャンネルを変えずに抛っておいた液晶画面にはニュースが映し出されていた。
 本棚には収納しきれなくなって、無造作に床の上に山積されている、まったく一貫性のないさまざまなジャンルの書物の堆積から、目に付いた一冊を拾い上げて、郭奉孝は…視線は活字を拾い、報道番組をBGM代わりに張文遠の帰りを待っていた。



 あの日…携帯電話が繋がらなかった理由を問い質されて、どうにも文明の利器と呼ばれる電化製品一般が苦手な旦那様いわく。
『特殊警備に携わっている関係者に、一人一台、支給されて、な…二台も要らないだろうと思って解約してしまった』
 ―――いろいろな機能がついていて、メールとやらもできるらしいが、俺にはよくわからない。



 だれにでも、意外な弱点があるもので……



 ―――奉孝、あとで取扱説明書を見せるから、代わりに使い方をマスターしてもらえないだろうか。
 ―――仕事で使うものが使いこなせなくてどうするのだ……
 ―――世の中、気合ではどうにもならないことも、ある。
 発信の仕方を覚えたら、一番最初にあんたに電話する。



 愛していると云いたくて。



「奉孝、ただいま」
 読書に没頭していた奥様が、夢から醒めたようにソファの背もたれ越しに振り返ると、お仕着せの黒いスーツを着たままの旦那様が、部屋の中へと入って来た。
「寒くないのかね?」
 バスローブを羽織っただけの郭奉孝に、張文遠は言外に『風邪をひくだろう…』と、仄めかす。
「わたしが寒い…と云えば、あなたは暖めてくれるのであろう?
 …だから、寒くない」
 ソファの周りにとり散らかったビールの空き缶の数で、奥様がほろ酔いのご機嫌であることに察しのついた旦那様は、ソファの前に回りこみ、身をかがめて奥様をすくい取るように抱き上げる。
「もうおやすみ」
「…まだ」
 ……本の続きが……と、云いさして、郭奉孝は手にしていた書籍をソファの上に滑り落とした。
「……万葉集……?」
 あなたの目のよさは、老眼の域に近いのではないか……?
 と、奥様がからかうほどに視力のいい旦那様は、足もとに近い場所にある書物の小さな表題を楽に読み取ってしまう。
「日本の古い抒情詩集だ。
 千年以上もまえの、名も忘れられてしまったひとの言葉が…こうしていまも読み継がれているのは、不思議なものだと思わないか?」



 いまのこの世に、千年を約束された言葉など、存在するのだろうか。



「現代は…これほど高度に、言葉を伝達する手段が発達しているのに…
 言葉を費やせば費やすほど、伝えたい思いが薄く薄く希釈されてゆくのは、何故なのだろう……」
 リビングルームからの光が、寝室に斜めに差し込んでいる。
 とりあえず、起きたなら最低限のベッドメイクだけはする奥様が整えたベッドは、薄暗がりのなかで、凪いだ海のように見えた。
 奥様を、そ……っと、その水面におろし、張文遠は、上着を脱ぎ捨て、左手の中指でネクタイをはずし、微かに煙草の匂いを留めたYシャツはそのままに…
「わたしの言葉はきちんと意図したとおりにあなたに伝わっているのかと、心配になることが、ある」
「昔のひとにとって、言葉とは、思いを伝えるためのものだったのだろうが、な…奉孝。
 たぶん、現代では、言葉は情報を流通させるための道具にすぎないのだろう」
 情報は、常に新鮮であることが至上命題なのだから、古くなってしまった『道具』など、すぐに書き換えられて、上書きされてしまう。
 言葉に命があるのなら、その寿命を決めるのは、その言葉を残したひとの思いの深さ。
「どんなにつたなくても。
 心の底からの一言なら、間違いなく伝わるものだと、俺は信じているよ」
「………文遠」
 虚飾のない、あなたの言葉だから、きっと。
 素直に信じることができるのだろう…



 かなわぬ願いと知りつつひとは…
 永遠のしあわせを言葉に託し、祈る。



「…文遠……」
「ん?」
「せっかく…風呂に入って……その……きれいさっぱりしたところを……あまり………」
「綺麗なものだから、穢したい…違うかね?」
「……!」
 耳朶を甘噛みするように、旦那様は最愛の奥様に、穢れない悪戯を、仕掛ける…
 手触りのいいコットンのバスローブのしたの、それよりさらに心地よい奥様の素肌の滑らかさを旦那様は指先で愉しむ。
 やがて…その指先は、繊く華奢な鎖骨のうえを、じわり……辿る。
「……はぅっ」



 千の言葉よりも。
 沈黙がすべてを語ることも、ある。
 …だけど。



「文遠……」
「どうしたね?」
「云い忘れたことがある」
「承ろう」



 ―――おかえり。



 あの日…
 空は高く遠く広く…
 そして…澄んでいた。





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2005年1月22日 01:16)
文責:市川春猫