『やさしく愛して』




 〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋をしごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍師だったのです〜



 その日その時、その場の状況に応じて、張文遠の仕事は、恋女房の待っている、狭いながらも楽しい我が家に帰ることさえ、ままならない激務となる。
 ある意味、職場結婚のようなもので、張文遠の職務の内容なら、当の本人よりも十分に承知している奥様は、旦那様が三日三晩家を空けようと、云ってきますのKISSのあと、今夜は早く帰るよ…の約束が何度破られようと、気にする素振りも見せないけれど、だから…それが張文遠には、ささやかな、哀しみだった。
 珍しく、公務を早めに切り上げた曹孟徳を、議員宿舎に送り届け、たまには早く帰ってあげるといいですわ…と云う徐晃の言葉に甘えて、帰り道、ずいぶん老齢の菓子職人が、同じくらい年取った奥さんとふたりで営んでいる洋菓子店で、いまどきどこを探しても見つからないような素朴な形のレモンケーキをあるだけ買って、張文遠は、四階分の階段を、足取りも軽く駆け上り、東南の角にある我が家のドアを、鍵を開けるのももどかしく…
「奉孝!」
 暮れもそろそろ押し迫るかと云う、師走の日の入りは、早い。
 いま時分なら、薄暗がりすら嫌がる郭奉孝は、家中のあちこちに…不必要な場所にさえ…煌々と明かりをつけて、張文遠の帰りを夕飯の支度もせずに、待っているはずだった。
「奉孝?」
 張文遠と所帯を持ってからは…もともとこの古いアパートにひとり暮らしをしていたのは郭奉孝なのだけれども…引き篭もりに近いほどの怠惰さで、よほどの用がない限り、ひねもす家で好き勝手をしている奥様が、木枯らしの吹く夕暮れ、家を留守にして帰って来ないとは、思えない。
「シロ、クロ、トラ」
 廊下を歩く足音を聴きつけたなら、三匹つれだって玄関のドアの前でご主人様をお出迎えする猫たちも、今日に限って、一匹も姿を見せない。
 眠るためにだけ借りていたワンルームを引き払い、ほとんど身ひとつでやって来て、入り婿のような按配で郭奉孝と暮らし始めた初日に拾った猫三匹は、拾ってもらった恩義に深く感謝して、張文遠にはたいそう忠実だった。
 熾烈にして苛烈、激烈にして強烈な閨房での闘争の結果、奥様を根負けさせて、ようやくに捨て猫の存在許可を得ることに勝利した張文遠に課された条件は、みっつ。
 一つ、エサ代は自分の小遣いでまかなうこと。
 一つ、面倒は自分でみること。
 一つ、寝室に入れないこと。
 黒猫だから、クロ。
 白猫だから、シロ。
 虎猫だから、トラ。
 どんなことにも、何がしかのこだわりを見せる郭奉孝は、張文遠が無造作につけた名前を聞いて、妙に拍子抜けした顔をした。
 きちんとそろえられた靴をみて、家のなかに郭奉孝がいることを確信した張文遠は、リビングルームへと、急いだ。
「…奉孝」
 四階の、居間の引き窓は、バルコニーへと続いている。
 日のあるうちなら、宮城の外苑の緑の連なりが一望に見渡せる。
 今は、黒いシルエットとなって、ところどころ、木々の枝の下にともる街路灯が、水銀の色に輝いているのが、散見できた。
「どうしたんだ?」
「…シロが」
 とりあえず、室内灯のスイッチをいれると、暗がりに目の慣れていた郭奉孝は、眩しそうに、片目を眇めた。
「…元気ない」
 旦那様としては、猫以上に元気のない愛妻のほうが気になるのだけれど…
「エサを食べないし…
 立って歩けないみたいだ。
 ずっと震えてる…
 触ると痛がる」
 フローリングの床に、ぺたり…腰をおろしたまま、膝のうえに、ワッフル織のいちばん気に入っているタオルに包んだシロを抱えて、郭奉孝は、すがるように、張文遠を、見上げた。
「どうしたのか、見てみようか」
 奥様の傍らに、片膝をついて、シロの様子を仔細に調べる。
 クロとトラは、行儀よく並んで座り、首を傾げるようにして、シロを見守っていた。
「…ここかな」
 右の後ろ足に、張文遠が触れると、シロは、小さく何かを訴えるように、ニャァ、と、啼いた。
「折れたか…ひびでも入ったか…怪我をするようなことを、したんだろう」
「……もしかしたら……」
「ん?」
「書斎の本が雪崩を起こしたのは…シロのせいかも」
「……本の下敷きになったか」
 猫が遭難するような本の山を、とりあえず、どうにか片付けて欲しいものだ…とは、口にせず、張文遠は、よそごとを、云う。
「添え木を当てて、応急処置をして、明日、獣医に診せよう」
 云われて…
 ようやくに気づいたものか、郭奉孝は、獣医に連れて行くと云う選択肢をさっぱり思い浮かべることのできなかった自分を、恥じた。
「シロが…このまま死んでしまうかと、思った…」
 ――そう思ったら……



 怖くて。



「ただ…抱いているより、出来なかった」
「…奉孝……」
 その…ひと目、見たなら、生涯忘れることのなど叶わない眸で…まっすぐに瞶められて…張文遠は、氷砂糖を研いだ針で、心臓を貫かれたかに…心が痛む。
「犬も、猫も、金魚も、兎も…みんな、キライだ……
 わたしだけを置いて、みんな…いってしまう」
「…俺はあんたを置いて行かないよ」



 添え木と云っても、子猫のことなので、張文遠は、台所をくまなく探して見つけ出した、割り箸を代用品に、手際よく、獣医の真似事を、した。
 ときおり、にゃぁ…と啼くシロを宥めすかしながら、手当てをする。
「痛くない、痛くない。
 やさしくするから…
 こわくない」
「嘘吐き」
「………………は?」



 抛っておけないから、見捨てられないのだ…と。
 男は…負わずともよい責を、その身ひとつに引き受けて、笑ってみせる。
 ひとたび、預かってしまったなら、容易なことでは投げ出すことを許されない生き物の命を、さも当然に真摯に慈しみ、愛情を注ぐ。
 他者の命に完全な責任を持つなど、考えただけでも空恐ろしいような重圧を、男は生きる愉しみにさえ、してしまう。
 ――共に生きる命があると云うことは、幸せなことでは、ないかね?
 なにもかもを諸手に抱いて、いつか喪うときの痛みをも耐える覚悟が出来るほどに…



  強き人。



「……やさしくするからなんて、嘘だった」
 猫たちは、きなり色のタオルにくるまって、部屋の片隅で、おとなしい。
 居間のソファに座って、おみやげのレモンケーキをかじりながら、郭奉孝は、なにやらいまさらのように、微妙な恨み言を、繰り返す。
「あれはぜったい…やさしくなかった」
「…リターンマッチをさせてもらえないだろうかね?」
「……」
 おあつらえに…月も隠れて眼を閉じている。



 だから。
 初めての夜をもういちど。
 夢みよう…



「いま何時だ?」
「10時45分だが?」
「しまった…」
「どうしたのかね?」
「…『奥様は軍師』を見損ねてしまった」
「…………」
「次回予告くらい、見られるかな」



 やさしく、愛して…
 これ以上、望むことは…
 罪と知りつつ…
 もっと、もっと、もっと……





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年12月 7日 23:00)
文責:市川春猫