『愛さずにはいられない』




 〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋をしごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍師だったのです〜



 お帰りなさい、あなた。
 お風呂になさる?
 お食事になさる?
 ……それとも。



「どうしようもないから」
 忘年会の季節であった。
 年忘れ…を理由に、週末はおろか、平日であっても、就業時間が来るか来ないかのうちに、世上では高級とされている繁華街に連れ立って繰り出すのは、それだけ日ごろ、みな口には出さないが過酷な任務なり業務なりに忙殺され、一息つく暇もないからだ…と、曹孟徳の第一秘書を務め、すべての人事の掌握も任されている夏侯元譲は承知していた。
 職務を離れれば、夏侯元譲といとこ同士…という気安さもあって、よくこういった会合には顔を出す夏侯妙才は、実におのれの適量を心得た品のいい飲み方で、乱れたところを同席者に見せたことがないし、タダ酒のあるところにはなぜか必ずその姿があるのは金庫番を引き受けている曹子廉で、マイクを握ったら離さないのは…得てしてそういう人物には音感が欠如しているものが多いがご多分に漏れず…曹子孝だった。
 曹孟徳のお抱え運転手として精勤に励む楽文謙は、自宅以外の場所では頑として一滴のアルコールを口にしようとはせず、張文遠の同僚として、最も気心の知れた徐公明は…それでなくとも明朗なこの男…飲むと底抜けの明るさで……誰も頼みもしないのに、裸で踊りたがるのが唯一の悪い癖であった。
 一方、才色兼備で有名な曹孟徳の歴代の私設秘書のなかで、伝説になった酒豪と云えばその名とひととなりを知っているものならば驚きを隠せないのだけれども、荀公達で…
 史上最も凶悪な酔っ払いと認定されたのは、張文遠の愛妻であるところの郭奉孝だった。
 どれほど獰猛にして凶暴な酔態を世間さまに披露したかと云えば、曹子孝の頭をお絞りで磨いたとやら、夏侯妙才の口ひげをチョウチョ結びにしたとやら、こともあろうに楽文謙ににらめっこを挑んだとやら、枚挙に暇がないのであった。
 では、旦那様の張文遠は?
「終電も行ってしまったから、ウチに連れてきたのだが」
 この男、ザルなのである。
 不可解なことに、どれほどの深酒をしても、頬ひとつ染めるような愛嬌のあるところを、見せない。
 ほろ酔いの、いい気分…と云うものと無縁なので…結局、飲んでも飲まなくても同じなら、飲まなくてよい…という結論に達した張文遠は、乾杯のビールのグラスに口をつける程度で、あとは…楽文謙と仲良くソフトドリンクを啜っていたりする。
 すると、宴果てたあとの始末を一手に押し付けられるのは自明のことで…どことなくとっつきの悪い…まったくの誤解だと妻の荀公達あたりは夫のために弁明をするかもしれないけれど…楽文謙よりは、頼まれたならイヤと云わない張文遠をアテにするのは人情で、気がつくと…宴会のお世話係は張文遠の仕事のひとつとなっていた。
「そこいら辺に捨ててきてしまえばよかったのだ」
 世に云う『お姫さま抱っこ』で、張文遠の腕の中に納まり、安らかな寝息をたてて幸せそうな微笑さえ浮かべて眠りについているのは……
 賈文和だった……
「張繍どのが心配しているだろうな」
「この真夜中に電話をするほうが非常識ではないか?」
 とりあえず…
 書斎にでも放り込んで、毛布の一枚もかけておけばいいだろう。
 奥様の決断で、賈文和は書斎と云う名目の、なにがどこにどう積み重なっているのか判らない物置に放り込まれることになった。



「奉孝…」
 旦那様がただいまのKISSをしようとするところに…
「近寄るな」
 奥様は、にべもなく、云い渡す。
「奉孝〜」
「わたしは煙草の匂いが嫌いだ」
 きつく吊った、見るものによっては、ただそれだけで睨まれているようにも感じる、際立った特徴のある眸で、張文遠を見あげると、つい…と、明後日の方向を、向いた。
「風呂にでも入るか……」
 コートの襟をたてて羽織る…などと、映画のフィルムがモノクロームだったころのハリウッドの俳優のように…それが気障にはならず、粋にすら見えるのは、張文遠がどこかエキゾティシズムを感じさせる風貌をしているからで…お仕着せの黒いスーツを、この男ほど見事に着こなせるのは、郭奉孝の知る限り、夏侯元譲以外には、いない。
「いっしょにどうかね?」
 ネクタイを、左の中指で緩めながら、居間へと続く狭い廊下の先を行く奥様の、華奢な骨格が露わに見て取れる腰骨の辺りを右手に抱き寄せて、旦那様は、耳許で、囁いた。
「……!」
 ぴし…っと、手の甲を叩かれて、旦那様は、予期したリアクションに、声を殺して、低く、笑った。
 居間の片隅に、一塊になって眠っていた猫たちが、ご主人様に忠義を尽くすために、一匹二匹…と、張文遠の足もとに甘えた鳴き声とともに、擦り寄ってくる。
「ご飯はもらったか?」
 クロを掬い取るようにして左手に抱えあげると、クロと目線を合わせるようにして、赤ん坊にでも語りかけるかに、問う。
 この大柄な男が、どうしてこれほど軽妙な体の動かし方をするのか、と…不思議に思うほど、張文遠の何気ない仕草は、一流の踊り手ですら羨望するかもしれない流麗さを持っていた。
 にゃぁん。
 ぱたぱたと長い尻尾を泳がせて、云っていることが判るとでも云いたげに、クロが、鳴く。
「そうか」
 切れ長の、涼しい目許をさらに細めて、引き結んだなら、意志の強さが如実に浮かび上がる口許には、いつも…郭奉孝に向けられる柔らかな微笑を刻んでいる。
 溢れるほどに…
 嘘偽りのない、愛情の濃やかな…ひとなのだ……
「…文遠」
「…ん?」
 居間に入り、前後が入れ替わってしまった張文遠の背中に、郭奉孝は…ぎゅ……しがみつく。
「まさに猫なで声だ」
「…あんたも訊いて欲しいか?」



 ご飯は食べたかね?



「猫でさえそれだけ可愛がるのだから…」
「の、だから?」
「もし…」
 言葉を繋ぐことを逡巡する郭奉孝に、胸の前で重ねられた奥様の手を、空いていた右手でその上から包むようにして、続きを促した。
「自分の子どもなんかできた日には、猫可愛がりだろうな……」
 わたしのことなど、忘れてしまうほどに。
「……妙な心配をする」



 あなたの背中に頬を寄せ…
 せめていまだけ、このままに…
 その優しさがどこかへ移ろいゆくことに…
 置き去りにされた子どものように、不安になる…



 不意に目が醒めて、それっきり…眠れなくなってしまった真夜中に…ひとり闇のなかで寂しい思いをしていると、よくよく眠っていたはずの張文遠が、いつの間にか起きだして、髪を撫でてくれながら、云う。
「奉孝、夜食に何か、つくろうか?」
 そんな風に云い出したとき、何か…と、云いながら、旦那様の作るものはいつも決まっていた。
 プリャーツキ…と、郭奉孝には耳慣れない、異国の響きの言葉で、張文遠が呼ぶその料理は、ありふれた言葉に直すなら、ポテト・パンケーキなのだけれど、帰る国をなくした祖母が、遙かな昔を懐かしみ、祖国の味として、孫息子に伝えたレシピで作るそれは…間違いなく…プリャーツキ…と、呼ぶよりほかない、張文遠に流れる血のなかの記憶を慰める味わいを持っていた。
「ウチの台所に、めぼしいものなどなにもないぞ」
 そ…っと、手をほどき、クロを左手にしたままで、振り返ると、張文遠は、愛しいものの耳許に唇を寄せて……
「なにもなければ、あんたでもいい」
「!!!」
「腹が減っては戦はできぬ、とね。
 うまいものを食べて、よく眠る。
 明日への希望の礎、だな」
「……。
 食べられるほうの希望はどこにあるのだ…」



 明日へ。



 いまこの瞬間が、せめて明日に繋がれと…
 永遠などとは、望まない。



「奉孝…」
「…ん……」
「先ほどの件は、コウノトリに要相談と云うことでどうだろうか」
「…莫迦」



 影はひとつに、重なり…ゆれる……
 愛さずには、いられない。



「お取り込み中、申し訳ないが」
「!?」
 思わず、その視線だけでヒトを殺しかねない目つきで郭奉孝が振り返ると、昏睡していたはずの賈文和が、居間のドアの前に、ひっそりと立っていた。
「手洗いはどこだろうか」



 もはや夜明けが近いころ。
 雨上がり。
 水たまりに映った、蒼い空に輝く太陽のようなプリャーツキを……
 三匹の、猫にもわけてやりながら……



 幸せの味を、かみしめる……





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年12月21日 00:23)
文責:市川春猫