『愛は救ってくれますか?』
〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋をしごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍師だったのです〜
たしかに…
ながいこと郭奉孝と張文遠が、どことなし、ままごとめいたつたなさで新婚の日々の暮らしを送る、エレベータのない四階建てのアパートの、その最上階の東南角の隣の部屋は、住む人のないままに、貸室の札が貼られて久しかった。
朝早くに、いつもの黒服黒ネクタイのいでたちで…これで黒メガネなら行き当たった子どもがヒキツケを起こす…とは口の悪い奥様の言い分だけれども…出勤した張文遠は、隣の部屋に引っ越し業者が必要最低限に近い小さくまとまった荷物を運び入れているのを見かけたが、低血圧を理由に昼近くまで布団から這い出て来ない奥様は、なにやら辺りが騒がしいと思いはしても、その原因を究明するつもりはさらさらなく、つまり…新しい隣人ができたことなど、ついぞ知らなかったのである。
『死ぬなんて勝手に決めるな』
「いいところなのに…」
昨日録画したお気に入りの人気ドラマ『奥様は軍師』を見物していた郭奉孝は、まず滅多に鳴ることのないドアチャイムが鳴ったので、来客を確かめるために、テレビの前から、立ち上がった。
ドアチャイムが鳴っても、いつもは居留守を決め込む郭奉孝が、どんな気が向いたものやらチェーンのかかった扉を細く開いて外を窺うと…
オトコの器量ってのはな、どこまで我慢ができるか…ってコトさ。
と、云い置いて、ながく帝都を不在にしていた人物が、なんの前触れもなく、風の便りもないままに、突然、そこに立っていた。
「…室長」
「久し振りだな」
慌ててなかへと招き入れ、一人用のソファを占拠する三匹の猫を追い払い、まずは客人の席を確保して、さて、次に何をしたらよいのか、はた…と、困惑する。
立ち尽くす郭奉孝を、ちらりと眺めやりながら、かすかに肩をすくめながら、客人が云うことには。
「…客には茶と菓子のひとつくらい出すものだ」
と、云ってもおまえはいくら教えてもコーヒー一杯満足に淹れられたためしがなかったな。
「…アポイントもとらずに突如やってくる風来坊を客と認めるならば、確かにもてなしの必要もありましょうが」
「気難しいコトを、云うな。
今日からお隣さんだぞ」
「…帰って、いらした」
「三年このかた、都落ちの田舎住まいは退屈だったぞ」
「栄転であられたと云うのに」
いかつい顔つきに、炯々と鋭い光を宿す隻眼は、知らぬものが見るならば、一目で恐れおののくほどの威風があった。
真夏の…ソーダ水の入った壜の色の、青い空を思わせる、その声の清涼は、曹孟徳の懐刀として、秘書室長を務めていた以前と変わらない響きを持っていた。
「お膝元の後援会の金庫番が栄転か?」
左の目を覆う眼帯に、人差しゆびをくぐらせて眼窩にゆびさきを突き入れると、ソファに足を組んで座った客人は、当人いわく…カラカラと音がする…目の奥をゆるくかき混ぜた。
「こちらに越してこられたとなると、もとのサヤに戻られると云うことになりますか」
「見知っているのは文若ぐらいでな。
おまえのそっくり返って天下国家を語る顔を見ながら仕事が出来るかと楽しみに帰ってきたが、まさかにおまえを嫁にもらうような物好きがこの世にいたとは驚きで、おまえのまずいコーヒーを飲まされるのが気鬱だったが、とりあえず、それは杞憂に終わったわけだ」
「おまえオマエとずいぶん気安く呼んでくださる」
ひとりで暮らしていたころなら、右から左にお茶とお菓子が用意できるような気の利いたことは難しかったけれど、今は、戸棚を開ければ必ずなにかがそこにある。
「奉孝を一人前にしたのは、俺だからな」
「いろいろと、誤解を招きそうな発言ですな」
土産がある…部屋に置いてきたから、取りに行ってこよう。
不幸な事故であった。
偶然は、三つ重なると悲劇的な喜劇となる。
思い立ったが吉日を人生のモットーとする郭奉孝の元上司は、気軽に立ち上がり、細い廊下の向こうに続く玄関先に足を向けた。
運命の輪は、ここで回転を始める。
ぴくり…何かに反応した猫たちもまた、縺れ転がり跳ねるように、三匹そろって玄関先を目指す。
隻眼の男には、左側から走ってくる猫三匹が、まったくの死角で、気づいたときには危うく猫どもを踏み潰す一歩手前であった。
たたらを踏んで…猫に足元をすくわれた男が、バランスを崩す。
出入り口が廊下に面しているキッチンから、それを見ていた郭奉孝が、元上司を支えようとして…手を差し伸べたのだけれども、時すでに遅し。
男が立ち上がらなければ。
猫が走り出さなければ。
奥様がそこにいなければ。
おそらくは……
「ぁ………」
その肩書きが用心棒であったとしても、誰も不思議には思わない長身の男を、郭奉孝の華奢な細腕で支えようとしたのが、そもそもの間違いであった。
巻き込まれて、下敷きにされ、廊下に重なり合って倒れこんだその有様は、公明正大に見て…
……押し倒されている。
ようにしか見えず…
もちろん。
「奉孝、お客さんかね……」
不意に玄関のドアが開き、極まりの偶然にこの光景を目撃してしまった旦那様も…
ナニゴトにも動じない胆力を備えた張文遠にしてからが…
とっさには、その場の状況判断に窮したので、あった。
亀の甲より年の功。
この場で最も世慣れて危機管理能力に富んだ元上司は、郭奉孝をおのが体の下にしたまま、つらりと云ってのけた。
「隣人の、夏侯惇です。
よろしく」
引越しの、挨拶代わりの菓子折りをもらい、奥様から、夏侯惇とは昔、上司と部下の間柄であったことを説明され、腹の裡はともかく、ひとあたりと愛想のいい張文遠は、ひとしきり、夏侯惇と奥様が思い出話に興じるのをときおり相槌を打ちつつ、おおむねにこやかに聞き役に回ってややしばらくの間を、無難にやり過ごした。
郭奉孝の些細な失敗談や、逆風のなか、選挙戦を戦い抜くのに弱気になった曹孟徳を激烈な言辞で鼓舞したエピソードに話柄が及ぶと、奥様は旦那様にも見せたことのない晴れやかに楽しそうな笑顔で反応した。
まるでそれは、旦那様に見せつけるかに。
――これから何かと世話になる。
自分がボディガードを務めている曹孟徳が右腕と頼む『伝説』の秘書室長の言葉であるなら、張文遠には否やの唱えようもなく、ただ、この男にしては珍しく、柔らか味のない表情で、うなずいただけだった。
今日は遅くなるのではなかったか?
「楽進どのと非番の日を交代したんだが…」
短く応えたあとは、奥様の存在さえ見えないかの素振りで、ひとり掛けのソファに座っていい加減、古新聞一歩手前の朝刊を読みふけっている。
「……文遠」
返事は、ない。
「……文遠」
いまだ蜜月の甘い新婚生活のなかで、郭奉孝が拗ねていじけて張文遠が宥めすかして機嫌をとる場面なら、何度もあった。
理由にならないような理由で、すぐに駄々っ子の我が侭を云い出す郭奉孝に、張文遠は、いつも余裕のある態度で、接していた。
それが…奥様には口惜しくて。
意地悪したくてかけたはずの罠に…
…自縄自縛。
「…文遠〜」
怒らせると、黙り込む癖があるなんて…今の今まで、知らなかった。
「…怒っているのか?」
「………」
「文遠」
きつく吊った、切れ長の涼やかな眸で瞶められると、もうしばらくは黙っていようと固く誓った心が、ざわめく。
「………」
「文遠、何とか、云え」
だけどその眼に逆らえない。
旅路の果てにようやくに。
たどり着いたこの部屋は、終着点。
手に入れた愛しいものを…
誰にも見せず、触れさせず…
独り占めに、このままふたりきり。
「文遠…?」
張文遠が、手にしていた新聞を、床に落とした。
新聞を上から覗きこむようにしていた郭奉孝を、引き寄せて、次の瞬間…張文遠は、床に奥様を、昼間見たのと同じ形で、組み敷いた。
「…ここからどうするつもりだったのかね?」
「……!」
「俺では物足りないか?」
「あ…あれは、偶然だと、云っているだろう」
「昔、なにがあったかなど、訊かないが…」
「なにもない!」
怒らせて、みたかった。
理由があるなら、たった、それだけ。
「あんたはいつも、優しくて…」
それが…とてもとても、不安。
「奉孝…」
いつかその優しさが、消えてなくなるものならば…じわり…と、引き伸ばされたいつかの明日ではなくて…
今すぐに、消えて無くなって欲しい。
もう…
あと戻りできないほどに、あなたなしではいられなくなるまえに。
喪って怖いものなら、今すぐに、消えてなくなれ。
諦めがつくうちに。
あれは夢だったのだと…
自分に嘘がつけるうち。
「嫌われて、憎まれるほうが…
気が楽だ……」
大切にしてもらえるほどの価値があるとは思えないから。
どうしていいのか、わからない。
「幸せなんて、長く続くものか」
いつまでも幸福に暮らしました、は、御伽噺のなかでだけ。
「奉孝…
よく聴いてくれないか?」
体を起こし、張文遠は床にそのまま足を組むと、その間に郭奉孝を、顔を見合わせるように抱き込んで、頤にゆびをかけると、上を向かせ、云い聞かせるように、囁いた。
「昨日は今日の物語で…
今日は明日の思い出だ。
年月はこの瞬間の積み重ねで…
あんたが信じる限り、幸せは歴史になって…記憶に留まる限り、消えたり壊れたりはしない」
死が二人を分かつとも。
愛のみが魂を救う。
それゆえに。
――この世の誰にも、愛を試すことは、できない。
That's all over.
||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年12月10日 23:42)
文責:市川春猫