『ここに愛あるを知らず…』
〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋を
しごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍
師だったのです〜
夢にさえ、見なかった。
珍しく、奥様の手料理で、朝食となったその日。
「別れてくれ」
藪から棒に、切り出され、張文遠は、なにごとも無かったかのように、出勤する前の身支度を整えるのに、専念することに、した。
「耳のないふりを、するな」
手入れをしているところを郭奉孝は見たことがないけれど、さりとてただの無精髭ではなさそうな、髭に覆われた頬のあたりに、一筋の傷跡が、見え隠れしている。
「出て行け」
まだ生傷とも云えるその創傷は、つい先ごろ、曹孟徳が国交を回復したばかりのもとは仮想敵国だった国に表敬訪問に訪れた際、その国の反乱分子に武力攻撃を受け、身を挺して曹孟徳を護衛した時に負傷したもので、楽文謙の機転で最悪の事態は免れたものの、我が主を先陣を切って護った当の立役者は、かなりの重傷となり、今現在は帝國海軍軍医大学校付属病院の特別室で療養中であった。
「離婚届は用意したから、判を捺してくれ」
ネクタイの、ノットのゆがみを、玄関先の壁に嵌め込まれた姿見で直し、足もとにまといつく三匹の愛猫を踏みつけないように気を配りながら、きちんと磨き上げられ、揃えられた革靴を履き、さて、奥様に行ってきますのKISSをしようと振り返ると…
「奉孝…?」
――わたしは絶対、この顔で損をしている。
切れ長…と、表現するならばまだ涼やかに聞こえるけれど、いっそ見事なほどに吊りあがった眦の印象のつよさは、たしかに…必要以上に郭奉孝を狷介な雰囲気に見せる一因にはなっている。
奥様を熱愛する旦那様には、まことにもってチャーミングな目許なのだが、何度そう云っても、奥様は信じようと、しない。
「どうした?
どこか、痛いのか?」
風邪か?
頭痛か?
それとも腹痛か?
「あんたが出て行かないなら、わたしが出て行っても、いい」
言い出したら聞かず、前言を撤回するなど夢想だにしない奥様は、旦那様の脇をすり抜け、この寒空に、サンダルで外に出ようとするので…
「奉孝?」
「離せ!」
繊い手首をあわてて掴み、云った。
「理由を、説明してもらわないことには」
操り人形の容易さで、引き寄せて、抱き寄せる。
「この手は、離せないね」
「わたしはもう、耐えられない」
瞠いた眸から……
空知らぬ雨。
ほろり…ほろ…ほろ……
とめどなく。
「あなたの心配など、もうしてやらぬ」
「…奉孝」
手をほどき、胸のなかの奥様を、なだめあやそうとしてその頬を包みこもうとした左手を、払いのけ、奥様は、言い募る。
「あなたがもう二度と、ここには戻ってこないのではないかと思うたびに、わたしはどうしていいのか途方に暮れてしまう」
自分で持て余してしまうような気持ちなど、これまでに感じたことなど、なかった。
曹孟徳の、秘書ではなく…
軍師としてだって、立派に職責を果たすことができるくらい、意識は明瞭で、思考は明晰だった。
なのに…
「あなたを知らずにいたときは、わたしの心は平穏だった」
あなたに甘やかされているうちに…
心がとても、脆くなってしまった。
いつも。
危険と隣り合わせ。
死神とは友人付き合い。
「あなたにいまの仕事をやめてくれとは、云えない」
――命を賭けて悔いの無いほどの仕事を、誰が奪えよう。
「…だから」
――あなたを喪うことの怖ろしさに、耐え切れないわたしのわがままを、素直に聞いてくれないか。
「文遠…」
人間は、不幸には慣れることができるけれど…
幸福には耐えることができない。
「きっと、いま…
わたしはとても幸せなのだ」
だから。
いまのこの状態が、確実に、いつか終わりのくる…死に至る病のように思えて仕方ない。
なし崩しの死など、わたしは欲しくない。
「幸せの、いまが頂点であるならば…」
ここで終わりにして欲しい。
「ふしあわせには希望があるが、しあわせには絶望がある」
逆境にあるとき、ひとは、一縷の望みにすがり生きることもできる。
しあわせは…
十五夜の、月のよう。
満ちてしまったあとは…
ただ、欠けゆくだけ。
――あなたなしではいられなくなるくらいなら…いっそ他人のままでいたかった。
「奉孝…」
黒水晶の煌きを宿す、潤んだ眸を…いつもの癖の、わずかばかり、猫背気味に屈みこむ仕草で覗きこみ、態度だけは立派に…こちらは背筋を反り返らせて旦那様を瞶め返す奥様に、噛んで含めて云い聞かせるように、張文遠は、云った。
「たとえこのまま、一生、同じ屋根の下にいたとしても、でも、な…奉孝。
やっぱりいつか、終わりの来る時が、やって来る」
けれど、それは、今日ではない…永遠の、いつか。
三日だろうと…30年だろうと。
過ぎてしまえば、一瞬のこと。
一瞬が永遠だと云うのなら。
永遠とはつまり…
一瞬が無数に繋がっている状態を、云う。
「奉孝…」
「ん……ぁ……」
舌の尖で、頬に伝う涙を掬いとり、張文遠は、郭奉孝の柔らかにゆるく波打つ絹糸のような髪に、無骨に節くれたゆびをさしいれ梳きあげる。
「確かに…
あんたは激しているときが、最高だ」
「…莫迦」
張文遠の、忠実なる飼い猫三匹は、身を寄せ合い、コトの成り行きを首を傾げるようにして、それぞれ異なった色合いの眼で、見あげている。
いつまでも、この手を離さないでいて。
ここに愛あるを知らず。
That's all over.
||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2005年1月11日 23:02)
文責:市川春猫