『わたしの可愛いひと』




 〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋をしごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍師だったのです〜



 昼は、淑女。
 夜は、娼婦。



 風の強い、そして、身を切るほどに冷たい、冬のある日のことだった。
 その古い四階建てのアパートの、二階の東南角の3LDKには、5年前から子どものいない夫婦が一組、暮らしていた。
 妻は奥様のもと同僚で、夫は旦那様の先輩格の同僚だった。
 もっとも、妻である荀公達と、奥様…郭奉孝は、入れ替わるようにして曹孟徳の秘書を務めていたので、互いに表面的な面識があるくらいで、さほどに親しいわけでもなかった。
 住む階が違い、これと云った接点もないままに、いままで同じアパートに暮らしていた。
「奉孝、いま帰ったよ。
 …いい匂いがするな」
 三匹の猫たちが我勝ちに玄関先に走ると、ドアの開く音がして、珍しく、夕暮れ時に帰宅した張文遠が、古いハリウッド映画の俳優のように粋に着こなしたトレンチコートを脱ぎながら、リビングへと姿を現した。
「結婚以来初めてじゃないだろうかね?
 あんたが晩飯を作って待っていてくれたのは」
 甲斐甲斐しくエプロンなどして、リビングとキッチンを隔てる対面式のカウンターの前に寄せて置かれたテーブルの前で、張文遠には背を向けて、出来上がったばかりの料理をグルメ雑誌のグラビアにできるほどの小奇麗さで並べていた後姿が、振り返る。
「………!?」
 何事にも動じない冷静沈着な男…と、他が認め、自らもそう認めているはずの張文遠が、一瞬、言葉を失い、周章狼狽した。
「失敬…家を間違え……」
 ……足もとに擦り寄る猫三匹を見おろして、辺りを見回し、間違いなく、いまだ気分だけは蜜月の日々の暮らしを送る我が家だと自分に納得させるのに、10秒を要した。
「お帰りなさい。
 お仕事お疲れさまでした」
 にっこり笑って、見知らぬ人物は、張文遠をねぎらってくれた。
「文遠、外から帰ってきたときはまず手を洗えといつも云っている」
「…あ、ああ…」
 当人は書斎と称しているけれど、実質は増える一方の書物が主の物置となっている玄関脇すぐの部屋から、郭奉孝が小言を云いながら、出てきた。
「奉孝?
 こちらの方は…?」
「二階にお住まいの楽文謙どのの奥方だ」
「初めまして。
 荀公達です。
 主人がいつもお世話になっております」
「いえ、こちらこそ」
 言動でも行動でも、無駄と云うものが一切ない、謹厳実直を人の形に結晶させたらああなるのではと思わせる、小柄ながらも鍛え上げられた体躯には存在感が漂う楽文謙の風貌を脳裏に描き、張文遠は、如才なく挨拶を返す。
「で……」
 云われたとおり、手を洗い、わたしにはかまわずおくつろぎください…と、荀公達の言葉に甘え、楽な格好に着替えた張文遠が、結婚以来はじめて見るような豪華版の食卓についたのは、七時のニュースが始まってまもなくのことだった。
「洗濯物を拾ってくれて届けてくれたのだ」
「洗濯物?」
「いま文遠が着てる長袖のTシャツを、取り入れる時に落としてしまって偶然通りかかった公達どのに拾っていただいた。
 ほこりはちゃんと払ったから、着ていてもよい」
 曹孟徳の従兄弟で貴族院の中堅議員をしている夏侯妙才から結婚祝いに贈られた何とかと云う…張文遠にはいちど聞いても覚えられなかったブランドのTシャツは、唯一、郭奉孝とペアで持っているアイテムなのだが、たったいちど、お礼状に添えるのに一緒に着たところを写真に撮っただけで、いくら頼んでも郭奉孝は『恥ずかしいことをさせるな』の一点張りで、それっきり自分の分は箪笥の奥にしまいこんでいる。
「頂戴します」
 基本的に、着るものについてはあまり頓着しない張文遠は、ほどよく着心地のいい風合いになったTシャツを愛用していた。
「せっかくなので、お茶にお誘いしたら、まぁ、なんだ…話の流れで料理の仕方を習うことになったのだが」
 ――ポテトサラダなるものを、生まれて初めて作ったぞ。
 意気揚々と、奥様は云う。
 微妙にじゃがいもがマッシュしきれていない中途半端な、味付けもかなりぞんざいなサラダに感じていた疑問が、それで氷解する。
 ……大根と牛肉の旨煮。
 ……春菊とシメジの卵とじ。
 ……青じそとじゃこの混ぜご飯。
 ……ピーマンの焼き浸し。
 ……切干大根と鶏肉の炊き合わせ。
 ……赤出汁の豆腐とわかめの味噌汁。
 どれも、遠い子どもの頃に、母親が作ってくれた懐かしい味のする惣菜だった。
 食べることにほとんど興味を示さない、食わず嫌いで偏食…あまつさえ小食の郭奉孝に、これだけのレパートリーを要求するのはほぼ絶望的だと思い至った張文遠は、むしろ自分が荀公達にこれらの料理を習っておきたいものだ、と、内心に慨嘆した。
「……味噌汁が、おいしいですな」
 母の味に似ています…と、云いかけたとき……
「……公達どの???」
 ほろほろほろ…
 前触れもなしに、荀公達が泣き出した。
「公達どのは今朝がた、その、味噌汁のことで楽文謙どのと喧嘩したそうだ」
「…は?」
 飲みたかったらインスタントがあるだろう…で、あっさり片付けられてしまった張文遠には、なにがどうしてどうやって、味噌汁が喧嘩の種になるのか、理解の範疇を超えていた。
「喧嘩したわけではないのです。
 わたしの不注意で、お味噌汁用のお味噌を切らしてしまい、赤味噌で作りましたら、主人が…子どものころ味噌汁は赤味噌だったと申しまして」
 結婚以来、五年このかた…
「あのひとの気に沿わないお味噌汁を作り続けたかと思うとわたしはとてもいたたまれないのです!」
「味噌の種類くらい、たいした問題ではないでしょう。
 飲めればよい」
 郭奉孝にしてみれば、そもそも、味噌に区別があるとはいま初めて知る事実で、さしたる意味を持たない。
「いいえ、五年ものあいだ、どうしてたった一言、おっしゃってくださらなかったのか、それが悲しいのです」
 ――わたしの作るものは、それほど取るに足らないものだったのでしょうか。
「お体が資本のようなお仕事なのですから、わたしも至らぬまでもお食事には気を配っていたつもりです。
 いつでもおいしいものを召し上がっていただきたかったのに」
「いえ…おそらくは…公達どのの料理の腕前に十分満足なさっているものと思いますが」
 この家に初めて招かれたとき、台所に包丁もまな板もなく…米は研いでから炊くことさえ知らなかった郭奉孝に驚いた張文遠は、これほどの至れり尽くせりで毎日丁寧にこしらえてもらった料理を味わっている楽文謙にわずかながら、羨望を覚えた。
「楽文謙どのは、公達どのの手料理に、うまいともまずいとも云われないのですかな」
 卵ひとつでも目玉焼きにしたならば、旦那様に感謝感激される奥様は、よそのご主人が食べるものに一言の言及もしないことが不思議だった。
「黙って食べている?
 それが当然のように?」
 青じそとじゃこの混ぜご飯が気に入ったものか、郭奉孝は、珍しく食が進んでいるようだった。
「あのひとは、めったにご自分の内心を打ち明けてくれませんから」
「寂しくないのですか」
 それならまるで、ひとつ屋根の下の他人も同然。
「奉孝…」
「云いたいことのひとつも云えず、互いに遠慮しあうなど、本当に心が通い合っているといえるのですかな」
 内に秘める…などと、可憐なしおらしさとは無縁に神経が出来上がっている郭奉孝は、ひとさまの家庭の事情につけつけとモノ申す。
「楽文謙どのも意地の悪い。
 味噌汁の好みくらい、さっさと云えばいいのに。
 気がつくまで、待っていたのだとしたら、それは、かなり嫌味ですぞ」
「奉孝…」
 抛っておくと際限のなくなりそうな奥様を、なんとか黙らせようとする旦那様の努力は、あまり報われているとは云えない。
「まさかに公達どのをていのいい家政婦としか見ていないのでは…」
「そんなことはありません!」
 さめざめ。
「そのような、無慈悲なひとではないのです」
 ただ…
 感情表現が苦手な、不器用なまでに朴訥な人なのです!
「しかし…」
 郭奉孝の科白を、珍しくさえぎるようにして、張文遠は、云った。
「それだけ…楽文謙どのを理解しているのは、きっと…
 世界であなただけでしょうな」
「え……」
 三匹の猫たちが、玄関のドアに向かって、じっと視線を注いでいる。
 立ち上がり、張文遠は、玄関先に歩いて行く。
 その足もとに、猫たちがまつわりついた。
「…我が家へ、ようこそ」
 扉を開けると、そこに。
「………」
 曹孟徳の護衛と公用車の専任運転手を兼務する楽文謙が、立っていた。
「文謙どの!」
 実のところ、荀公達より楽文謙とのほうが言葉を交わす機会の多かった奥様が、いつもの見慣れたあのしぐさで、楽文謙に意見した。
 つまり…背筋を反り返らせて…
「たまには奥さんを褒めてあげてもいいのではありませぬか?」
 滅多に、さざなみがたつほどの表情の揺れも見せない楽文謙が、ふ……っと笑ってみせたのは、照れ隠しか、それとも……
「夏侯室長が、うちのがこちらにお邪魔していると教えてくださいまして」
 張文遠の後ろ。
 郭奉孝の陰で。
 まだ半分めそめそしている恋女房に、うなずいた。
「帰りましょう」
 荀公達には、それだけで、よかった。
 その一言だけで、十分に。
 あなたはだれより。
 わたしをしあわせに…してくれる。



 わたしの可愛いひと。



 愛は…都会の夜空。
 眸を凝らしても、輝きをかき消されてしまう小さな星のように。
 一生懸命に探すものにのみ、その存在を垣間見せる。
「文遠」
「ん?」
 ベランダに出て、これだけはどうしても…と、懇願して許しをもらった食後の一服をつけながら、珍しく傍らにいる郭奉孝の顔を覗き見る。
「文謙どのは幸せなひとだな」
「なぜかね?」
「ああして毎日、自分をいちばんに思ってくれるひとと、おいしいものを食べて、暮らしている」
「負けねェよ」
「…?」
「幸せに、勝ち負けなどないが、ね。
 あんたとこうしていられて、俺はこの世の誰にも負けないくらい、幸せだ」



 たとえ晩飯が宅配のピザでも。



「……文遠、それは、かなりの嫌味だぞ」
「そろそろ『奥様は軍師』の時間じゃないのかね?」
 この世のなかに、幸せは、星の数ほど。
 どれほど不器用だって、かまわない。
 アイシテイルカラ。
 それが、すべての……



 答え。
 





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年12月13日 22:15)
文責:市川春猫