『プロローグ愛など語る必要もない』



 狭いながらも楽しい我が家。



 築三十年は経過した、今現在の消防法では存在自体を許されないような、古びた鉄筋コンクリートの賃貸アパートは、それでも都心のほぼ一等地とされる場所に建っていて、建国以来幾星霜を閲した帝都の宮城のほど近くであれば、緑は豊かで、周辺は閑静だった。
 外壁に蔦の絡まるどこかレトロな昔懐かしさに目を奪われたなら、所有者は『マンション』と主張してやまない、四階建てだったためにエレベータも設置されていないアパートは、世の娘さんたちに憧れの眼差しで眺めてもらえるほどに、瀟洒なたたずまいを持っていた。
 全戸数は24。
 四階の、東南角の日当たりのいい3DKに、新婚早々のふたりが、猫三匹とつつましく暮らしていた。
 奥様の名前は郭奉孝。
 旦那様の名前は張文遠。
 人柄は申し分なく、実務能力にも長けた逸材でありながら、時に利あらず、なかなかに浮き沈みの激しい波乱の人生を送ってきた張文遠が、この国の影の支配者と云われる超大物政治家の曹孟徳に特殊身辺警備の護衛官として拾われたのがきっかけとなり、曹孟徳の私設秘書を務めていた郭奉孝と運命の出会いを果たし、張文遠と郭奉孝は、前世からの約束で紅い糸に結ばれていたかのごとく、結婚する運びとなったのであった。
 もっとも…
 口説き落とされて当人としては何やらうっかり籍を入れてしまったと認識している奥様は、猫三匹を連れて自分が長らくひとり住まいしていたアパートに転がり込んできたこの男を、新しく増えた家財道具のひとつくらいにしか、思っていない節がある。
 たいそうに使い勝手のいい、便利重宝な家財道具ながら…
 少々、口うるさいのが珠に瑕ではなかろうか、と、郭奉孝は、内心に呟いていた。
「奉孝」
 甜みのなかに、わずかに溶けた渋みが、耳に不思議な快い余韻を残す。
 宵っ張りの朝寝坊はいつものことで、満ち足りるまでは、布団から抜け出すことをしない郭奉孝は、ぬくぬくと枕を抱きかかえて、幸せそうに惰眠をむさぼっている。
「目を醒ましたらどうかね?」
 けして…頭ごなしに命令形で口を利く男ではない。
 いつも、一歩譲って相手を立てる。
「せっかくの日曜日で…もう日は高い」
「…抛っておけ」
 目蓋を閉じたまま、郭奉孝は、云う。
 長く濃い睫のしたにうすあおく、柔らかな紅筆で刷いたような淡い翳りは、夕べつかの間の情事の名残り…
 頬を包む、大きな温かい左の手のひらを、煩わしげに、払う。
「朝飯ができているんだが…」
「寝かせておいてくれ」
「暖かいうちに食べたほうが、うまい」
 曹孟徳の秘書を務めていた頃も、遅刻寸前で事務所に駆け込むことは日常茶飯事であった。
 その、どうにも品行方正ならざる生活態度について、同僚の、こちらは今でも曹孟徳の傍らにあって彼の補佐をしている荀文若が、いつも呆れていたものである。
「じゃ、先に食べるといい」
「あんたと一緒がいいんだが」
 くるり…郭奉孝は、ことさら意地悪をするように、張文遠に背をむける。
「や、だ」
 ゆるく、天然に癖のある、黒い絹糸のような髪のあわいに、白皙の細い首筋が覗いて、見るものの胸を、ざわめかす。
 柔らかに華奢な頚骨など、片手でさほどの力を入れなくとも、男の力では簡単に砕き折ることが出来る。
 触れて、血が通っているかをどうしても確かめたくなるほどに、郭奉孝の生命の存在感は、希薄だった。
「…奉孝」
「…なんだ」
 執着なのだ……
 憐憫は、たやすく愛惜に位相を変える。
 氷を刻んだかのか細く繊弱なからだつきは、やもすると…蜉蝣の儚さ…
 衰滅のみが生存の目的であるかの哀切に、狂おしいまでの妄執で、郭奉孝をいたいけ…と見る張文遠の心を絡めとリ、身動きもならぬ恋慕の混沌へと踏み迷わせる。
 抱きとめて、つよくひきとめなくては。
 誰にも真似など出来ないほどの軽やかさで、幽明境を越えてしまいそうな…ほんとうは、この世に生きているのが苦痛なのかもしれないほどの繊細で、日々の暮らしに傍観者の位置を占める愛しいものを、現実に繋ぎとめたいと…張文遠は、渇望する。



 ―――生きていても、死んでいても、結局は、同じ事象の裏表のような気がする。
 生きていたところですでに死んでいるような人間はいるし…千年以上まえに死んでいるのに今なお生きているのと同じ人間だっている。
 世の中などと云うものは、もしかすると…
 誰かの見ている夢の断片なのかも知れず。
 夢見たままの脳髄が、眠ったまま垣間見ている幻が『現実』の正体なのではないだろうか……
 ひとのからだは…
 思い極めて望むなら月までだって行けるのに。
 ひとのこころは…
 どうしてそのからだに閉じ込められたまま、どこへも行けないのだろう?
 こころとからだがきしむとき。
 ひりひりと傷がついて痛むのが…
 きっと。
 魂と呼ばれるものだ。



「ぁ…ちょう……」
 砂を噛むほどの空漠に、瞬きもせず物思いしたことなどない男には、きつく吊った涼やかな眸に、何が映っているのか、窺い知ることは、できない。
 生きることを、己の理想の到達地点へと向かうための前進であると定義する男にとって、現実とは、今まさに目の前にある困難や義務やささやかな楽しみや生涯の伴侶と思い定めた者との穏やかな暮らしそのものであって、曖昧な観念のなかでおぼろに揺らぐ不確かな蜃気楼などでは、なかった。
「…ゃ」
 ふわりと軽い羽布団を引き剥いで。
 そもそもの資質に恵まれた、格闘技に縁がなくても男ならば、幾許の羨望を禁じえない、鋼を思わせる勁さがありながら、その鋭利を包み隠すやわらかさを持った体躯を、張文遠は、郭奉孝のうえに覆い被せた。
「お、重いィ」
 じたじた…と。
 不意に陸に引き上げられてしまった小さな魚のように…張文遠の腕のなかで、獲物は無駄な抵抗をするけれど、あらがいは、無意味だった。
「……はぅ………」
 左の薬指が、微かに…焦れるほどの緩やかさで、鎖骨のうえを滑ると…郭奉孝は、唇を噛みしめて、つよく眉根を寄せてしまう。
「奉孝」
「…ぁ、だから、なんだ」
「惚れてるよ」
「…まえにも、聴いた」
「何度でも云う」
「愛など語る必要もない。
 一度で十分だ」
 妙なところで妙なことにこだわる郭奉孝は、きっぱり、張文遠に、云い渡す。
「いちど聴けば、ちゃんと覚えている。
 忘れたりしない」
「記憶力がいいのも良し悪しだな」
「…口説き文句などと云うものは、国債と一緒で乱発すると価値が下がるのだ」
「……云えば云うほど幸せが増える…と、思わないかね?」
「見解の相違だ」
 ふと思い出したように、郭奉孝は、旦那様に、時間を尋ねた。
「10時少しまえだが…」
「なんと『奥様は軍師』の総集編が始まってしまう」
「……奥さん軍師です???」
「何をどう聴いたらそうなるのだ。
 しかもなにやらイカガワシイような…」
 よいしょ。
 張文遠を押しのけ、奥様は日ごろはあまり電源の入らないテレビのある居間に、寝乱れたままの格好で、旦那様を置き去りに行ってしまう。
「ほうこう〜」
 一人掛けの、デザインの秀逸と機能性の高さで定評のある北欧製のソファに陣取り、郭奉孝にいちばんなついている真っ白な子猫を膝に載せて、テレビのチャンネルを合わせる。
「ちかごろ巷で大流行している番組なのだ」



 〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋をしごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍師だったのです〜



「朝飯は…昼飯と兼用だな……」
 冷めてしまったフライパンのなかのプレーンオムレツを温めようとしたとき、居間とキッチンを仕切るカウンターの上に放置されていた携帯電話が鳴りだした。
「…もしもし?」
 張文遠に、言葉を差し挟む余裕も与えず、電話の相手は用件を伝えると、一方的に通話を切ってしまった。
「済まないが…」
「仕事であろう?」
 おおよその見当は、つく。



「せっかくの非番で…今日は一日一緒にいられると思ってたんだが…」
「曹主席の気まぐれには誰も逆らえぬ」
 葬式帰りと勘違いされそうな、黒服黒ネクタイに身じまいを整えた張文遠が、テレビの画面に食い入っている連れ合いに、実に済まなさそうな声をかける。
 見るも気の毒に肩を落としている張文遠を、ちらり…流し目に視界の隅にとらえ…
 ひらひらと…手招きを、した。



「気をつけて…」



 ソファの、まえ…中腰に屈んだ、旦那様の、日の当たりようでは、青みがかった銀色に見える髪に繊い指を沈ませて、抱き寄せる。
 膝のうえで、ふたりにはさまれ窮屈になった仔猫が、にゃぁん…と、啼く。



 ちゅ。



 テレビの液晶の向こうでは、旦那様が奥様に……



 行ってきますのキス。





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年12月 6日 22:17)
文責:市川春猫