『我が捧ぐは愛のみ』




 〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋を しごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍 師だったのです〜



 ―――O.ヘンリーを知ってるかい?



「これにしとこう」



 と、張文遠が選んだのは、帝都の中心部にある繁華街にあって、最高級なブランドを扱う店が軒を並べ妍を競うことで有名な一画の、さらに敷居の高い目抜き通りの一等地にあるその店で、同じ目的に使われる品物のなかではもっとも高価な一点だった。
 ブランド名が冠されていなければ、おそらくは…10分の1とまではいかないけれど、かなり低価格で入手できるのではないかと思われるその品を、張文遠は、ぽん…とキャッシュで一括払いにしてしまい、簡略に包装してもらっただけでそれ以上の余計な装飾は丁重に断り、無造作にコートのポケットにふたつの包みを放り込み、彼に見惚れて『ありがとうございました』の決まり文句もそこそこの女店員に見送られ、愛しの奥様の待つ築三十年の古いアパートの東南角の四階に…家路を急いだ。



「文遠、遅い!」



 いちど褒めたら、何とかのひとつ覚えで、とうとう非常に数少ないレパートリーのひとつになったポテトサラダが、なぜか丼で一杯分、食卓の真ん中に鎮座ましましているリヴィングルームで、奥様が結婚前から愛用しているひとり掛けのソファに、白い猫を膝に抱いてテレビドラマを見ていた郭奉孝が、旦那さまを一顧だにせずに、云った。
「ただいま、奉孝」
「出せ」
「……なにを?」
「ボーナス」
 曹孟徳の事務所のボーナスは、年の瀬も押し迫ったころに、支給されるのが慣例であった。
 しかもこのボーナスの支給は、いまどき珍しくも銀行振り込みではなく、曹孟徳が自身で表書きをしたためた封筒に現金が入っていて、彼自身が一年のねぎらいの言葉とともにひとりひとりに手渡すという念の入った一種の儀式だった。
 古典的とも云える、ある意味、様式美の極みとも受け取れる方式を堅持している曹孟徳に、私設秘書としてその側近くに仕えていた郭奉孝は、訊いたものだった。



『なぜこのような煩雑なことを?』
『人それぞれ、貰うときに個性が出て面白い』
 ――君はいつも当然の顔をして現金袋をもらう。



「使い道はすべて決めてある。
 早急に振り込まなくてはならないものもあるから、今日のうちにミミを揃えて、出せ」
「一銭もない」
「…はァ!?」
「ぜんぶ、使った」
「なにに!」
 皮算用がすべて外れてしまった奥様は、それでなくてもきつく吊った眦をさらに吊り上げて、シロが膝から転がり落ちるのもかまわず、勢いよくソファから立ち上がると、振り返りざま、旦那様を詰問した。
「わたしに内緒の借金でもあったのか!?」
「……あいにく俺はグリーンピースの次に借金が嫌いだ」
 奥様の剣幕にも、たじろぐ風も見せず、明日の天気でも話題にしているかに、旦那さまの口調は、穏やかだった。
「とにかく…どうするのだ……
 今日ボーナスが出ると思っていたから、支払期限までほっぽらかしにしていたのに…」
 恨めしそうに、上目遣いに張文遠を睨みつけ、郭奉孝は、脣を尖らせた。
「なにを買ったのかね?」
 いったいどうやってひとり暮らしをしていたものか、生活力がまるでゼロに等しい郭奉孝は、貯蓄という概念が欠如していて、これまでの稼ぎは右から左に使い果たし、自分の自由になる余分な金銭は、まったく持ち合わせがなかった。
「…もういい」
「…奉孝」
 旦那様の釈明を一言たりとも聞かずに、奥様は、この話題を打ち切りにしてしまった。



 無言の拒絶は、たがいを隔てる距離となる。



「奉孝、相談しなったのは済まなかったが…」
「別に。
 あなたが体を張って得た報酬を、あなたがなにに使おうと、かまいはせぬ」
 目も合わせずに、それでも返事する郭奉孝の声は冷ややかだった。
「忘れていたことを、思い出したんだ」
 ―――先週の…『奥様は軍師』をあんたと一緒に見ていて、ね。
「……?」
 ―――なんとなく、羨ましそうに見えたから…
「羨ましそう?」
 先週放送されたエピソードがどのようなものだったか、郭奉孝は、わずかながら、眉根を寄せて、思い返す。
 確か、先週は、奥様が旦那様からもらった大切なものをどこかに置き忘れてしまったことからひと騒動になる…というあらすじだった。
「…たいせつな、もの……あ……」
 にゃあん…
 キッチンの隅っこで、ミルクを舐めていたクロとトラが、ご主人様の足もとに擦り寄ってくる。
「あんたが必要ないと云うから…
 披露宴どころか、式さえ挙げてないだろう」「…無駄なことだ」
「だから、せめて」
 まだ、羽織ったままだったコートのポケットから、薄青い、品のいい色合いのラッピングペーパーに包まれた小さな箱を引っ張り出し、ソファに座りなおした奥様を、上から覗きこむようにして、その箱を、手渡した。
「開けてみてくれないだろうか?」
 包み紙に印刷されたロゴマークを見て、中に入っているものの見当がついた郭奉孝は、微かに溜め息をついた。
「サイズも知らないくせに」
「大丈夫。
 ちゃんと測った」
「いつ!?」
「ゆうべ」
 いつのまに…と、問い質そうとした奥様は、ゆうべの旦那様の奇妙な行動に思い至り、知らず…頬を紅く染めた。
「咥えていたのは……そのためか……」
 いや…と云えば、けして無理強いはしない男が、昨日はなぜか執拗で……
「嵌めてみてもらえないだろうか?」
 ゆうべ咥えて確かめた、その…くすりゆびに。



 忘れ物。



 それは、あなたに捧げる愛の、証し。



「ひとは……どうしてそんなに、形式にこだわるのだろう?」
「目に見えなくては不安だからさ」
「あなたも、不安か?」
「俺は、ただの平凡な男だから」
「…嘘ばかり」
「嘘?」
「このわたしを嫁にもらった時点で、あなたは平凡な人間ではない」
「……どう解釈したらいいのだろうかね?」



 欲しがりもしなかった指環。
 モノは、モノだ。
 それ以上でも、それ以下でもなく。
 すべて…この世に存在する『モノ』に、永遠の意味を与えるのは、ひとの心のありようだけなのだ。
 100万本の薔薇にも。
 100カラットのダイヤにさえも。
 誰かの気持ちがこもっていなくては…
 記憶にとどめる値打ちもない。



「で…
 ひとつ訊きたいのだがね?」
「なんなりと」



 ボーナスで、何を買うつもりだったのかね?



「思い出を」
「…?」



 あなたの忘れ物は結婚指環だったかもしれないが…



「わたしの忘れ物は、新婚旅行だったのだ」
「…奉孝」
「あなたはいつも忙しいから…
 遠くには行けなくても、ほんのすこしでも、ゆっくり…
 ゆっくり骨休めでもしてもらいたくて……
 ふたりで旅をした…
 それだけの事実が…記憶として、欲しかった」
 帝都から、程近く。
 その気になれば日帰りだってできるくらいの場所にある、昔ながらの温泉地にある老舗のホテルのスイートに、予約を入れた。
 代理店を通したその予約の有効期限が、明日までだったのだ。
 …キャンセル料くらいは、なんとかするけれど。
「でも…
 あなたがわたしに気を遣ってくれたおかげで…」
 夢になってしまった。



 愛の証し…と、捧げた指環も。
 指環など、欲しくはなかった奥様には、無用の品で…
 旦那様を気遣ったはずの小旅行も、旦那様の奥様を思う気持ちのために、予約は無駄になってしまった。
 つまりは…
 たがいによかれと思ったつもりが、結局は、空回りになってしまい……
 気がつけば。
 言葉にすればすれ違うこともなかったはずの距離が、遠くまで来てしまった。



 言葉にしなくて伝わる距離があるとするなら……
 それは、たがいの隔てがなくなるまでに、ふたりひとつに重なり合うよりほかになく…



「文遠…」



 小箱から出したプラチナの指環を、いつのまにか、ソファの肘掛に、体を半分預けるようにして腰掛けている、帰ってきたままの格好で着替えもせずにいる張文遠の手のひらに載せ、郭奉孝は、自分の左手を、差し出した。



「あなたの分も、箱から出して…」



 誰にも祝福されなくていい。
 神にすら認められなくていい。



 永遠の愛の象徴を、いまここで……
 取り交わそう。
 我が捧ぐは愛のみ。
 愛のみが、魂の距離を近づける。





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年12月27日 23:32)
文責:市川春猫