『忘れ残りの白い月』




 ことのおこりは、何気ない、一言。
 えてして、そういう場合に限って、気がつくと、おおごとになっていたりする。
「わざわざ届けてくれたのか」
 黄昏どきはとうに過ぎ、天子の住まう都のうえに、深い夜の帳がおろされて、重なり合う家々の甍の波に月が蒼い光を投げかけている。
 まずは当座に…と、用意された張遼の居宅は、ほかの主だった将官たちの邸宅が集まる街区からは、かなり外れた、あまり開発の進まなかった人気のない場所にあった。
 日中の、明るい時でさえ、往来の人の行き来はまばらで、夜の薄気味が悪いほどの静寂さは、大の男でさえ、一人では通行を避けるほどのものがあった。
 そこに…わざわざ足を運んでくれる人物がいたならば、茶と菓子のひとつも出して、歓待するのは…義理堅いこの男のこと…至極当然と、云えた。
「文遠どのが猫を探していると聞いたんでな。
 ウチにいるので、いちばんの美人を連れてきた」
 客間に通され、張遼が自ら淹れたお茶と小奇麗に八つに割ったりんごを振舞われ、近頃の天気から、西涼の馬の話、負けずの徐晃の武勇伝から、果てはどこの酒場のアテが美味いかまで、正反対に見えてそのじつ奇妙に気の合う二人は飲んでいるのがお茶だというのにすっかり楽しく語り合い、徐晃が腰を上げたのは中天に懸かった月が西に傾き始めた時分だった。
「なんなら泊まっていくか?」
 供回りのものもつけずに単騎でやってきた徐晃に、張遼は、訊いた。
「せっかくだが、明日はちぃっと野暮用があってな」
 猫を可愛がってくれ…と、云い置いて、徐晃は月明かりのなかを、帰って行った。
 そもそも、コトの始まりは、台所にねずみが出て、置いてある米やそのほかの食料品に被害が出るから、猫でも飼ってみようかと思う…と、何気なしに云ったのが、なぜか…
 話に尾びれ背びれ胸びれに尻びれがついて「張遼将軍が猫を集めている」
 ことになり…気がつけば。
「どうするのだ、張遼。
 これで23匹目だぞ」



 みゃあみゃあ……
 夏侯惇より2匹。
 夏侯淵より1匹。
 楽進より3匹。
 曹仁より1匹。
 荀ケより1匹。
 荀攸より2匹。
 程cより1匹。
 なんと、曹操より5匹。
 その他モロモロ……目録が作れそうなほど、ピンからキリまで。
 およそ、張遼と面識のある人物からはほとんど、猫が彼の居宅に贈られた。
 積もり積もって、徐晃の猫で、23匹と数え上げたのは、張遼ではなく、気ままにふらりとやってきては勝手に好き放題をして、風向きと気が変わればまたどこへともなく居なくなってしまう、郭嘉だった。
「あんた、友達が多いな」
「おかげさまでな」
 走り回るものがいるかと思えば、怠惰に寝そべったまま眠り続けているのもいて、さすが、23匹も猫がいれば、それぞれに個性が際立って、眺めているのも、飽きず、面白い。
 徐晃のくれた猫は、もとの飼い主が自慢するだけあって、目の醒めるように真っ白な毛並みの、蒼い空に染まったかのように美しい色合いの瞳を持った子猫だった。
「あんたくらいかな。
 猫をくれなかったのは」
 徐晃とは顔をあわせず、猫に埋もれて張遼の寝台のうえで、瓢に入れた酒をさっぱり美味そうな顔もせずあおっていた郭嘉が、けだるく躰を起こし、頬にかかるゆるく波打った髪をかきあげて、子猫を肩に載せて寝室に入ってきた張遼を、見上げた。
「俺は猫なんて嫌いだよ」
「なんだか機嫌が悪いな」
 みゃーぅ。
「わ…」
 寝台の傍らに立った張遼の肩から、白い子猫が身を躍らせた。
 飛ぶ…と云うよりは、落下して、子猫は郭嘉の頭の上に自分の居場所を見出した。
「……張遼」
「なんだ?
 あんたが気に入ったみたいだぞ」
「俺は猫に気に入られるのは本意ではない」
「同類だと思ったんじゃないか?」
 ――あんた自身が24匹目だな。
 ――猫と一緒にするな。
「24匹目にいちばん手が掛かりそうだ」
 すィ…
 骨の太い、長いあいだの鍛錬と、幾たびもの死闘を越えて来たために、ふしくれてどこかいびつな形に成り変ってしまった左手が、郭嘉に、伸びた。



「なぜ猫が嫌いなんだ?」
 これほどに、気まぐれで、愛らしい生き物は、ほかにあるまい。
「猫は災いを呼ぶ魔物の遣いだ」
「迷信など、信じてもいないくせに」
 窓から斜めに、月の光が降り注いでいる。
「あんたは…猫よりすごい、魔物だよ」
 つぅっ…と、あやすように…顎の裏側に、薬指を滑らせて、張遼は身を屈めると、郭嘉の耳もとに、囁いた。
「拗ねているのか?」
 抛っておかれて。
「………!?」
 くすぐったさに、反論の、声が、出ない。
 思わずすくめた肩に、頭に乗っていた子猫が、転がり落ちた。
「はうっ」
 弱いのは…肩ではなくて、鎖骨なのだと…
 張遼は、知っている。
 酔いに、うすくれないに染まった頬も。
 しどけなく着崩れた着物の衿元からのぞく、どこか青みがかってさえ見える白い膚も。
 繊く柔らかく頼りない、子どもめいてしなやかな髪も。
 知らない者が聞けば、きつく棘のある口調も声も。
 なにより…
 対象を、ひたむきに瞶めて逸らすことを知らないまっすぐな視線を。
 なにもかも、この手のなかにつかみしめて離したくないと思った瞬間から。



 魔物の虜。



「よせ……」
「思い極めたら、あとに退かないのは、なにも…楽進どのの専売ではないさ」
 はじめましてから行儀よく、はじめたわけではないこの関係。
 どこへどうしてたどり着くかも、判りはしない。
 与えるものが奪うのか。
 奪うものが与えるのか。
「莫迦……」



 いつになく……魔物は静かだ。



「あんた…ほんとに23匹も猫の面倒を見るつもりなのか?」
「心配するな。
 24匹目も、ちゃんと飼ってやる」
「……戯れ言を素面で云うな」
「……冗談の通じない男だな」
「!!!」
 張遼の言葉が、ココロの傷に障ったらしく、郭嘉は、気がつけば自分を組み敷いている男のわき腹を、思い切りよく殴りつけた。
 堪える風もなく、張遼は、低く、咽喉の奥で笑った。



「なあ、郭嘉…どの」
「奉孝でいいと云った筈だ」
「猫の名前をどうしようかね?」
「…全部に名をつける気か!?」
「寝物語にするには、格好だろう?」
「……帰る!」
「独りで帰るには、月の明かりは暗すぎる」



 忘れ残りの白い月が、西の空に低い。
 けれど。
 夜明けには、まだ遠い。
 24匹目の猫は、男の背に、爪を立てる。
 子猫の瞳に…
 映るは、真夜中の白日夢。
 





That's all over.

||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年11月11日 12:52)
文責:市川春猫