『愛と呼ぶよりほかになく』




 〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋をしごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍師だったのです〜



 旦那様より、本が大事と思いたい。



 第一印象は?
 と、訊かれて…さて、困ったことに、記憶がないのは奥様のほうで…一を問えば千を答え、森羅万象をその小さな頭蓋の裡に留めていると云われる郭奉孝の脳内メモリに記録がないとするならば、それは…かなり由々しき事態ではないか、と、旦那様は密かに悲しくなってしまった。
「世界記憶力選手権のワールドチャンピオンになれそうなあんたが、俺と初めて会った時の記憶がないなどと…あんまりではないかね?」
「…勝手に妙な世界選手権に出場させないでいただきたい」
 年が明け、元日の朝早くにかなり大きな地震があったほかは、平穏な一年の始まりとなった。
 曹孟徳の政治活動はすでに平常モードとなり、彼が擁するスタッフ一同は、通常業務に精勤を励んでいた。
「五年前の同じ日の晩飯のメニューまで憶えている、と、公明どのが呆れていたが、本当なのか?」
「偶然、憶えていただけだ」
 朝早く出かけて行き、夜は日付が変わるまで帰ってこない張文遠と、その愛妻であるところの郭奉孝が二人揃って楽しい我が家で団欒しようとすると、それは、夜明けに近いころあいの、なんとも曖昧な時間になってしまう。
「なにをいまさら、第一印象になどこだわるのだ」
「…べつに……なんとなく、ね」



 愛妻に付き合わされて、『奥様は軍師』の劇場公開版のDVDを見せられた。
「次の戦は」
「…ん?」
「次の映画で展開されるだろうが、奥様最大の見せ場になるだろうな」
 絵空事…と云うものに、あまり感情移入できないのは、いい歳をしたまっとうな男なら、至極当然のことで、奥様がご機嫌麗しく楽しそうならそれでよしとする旦那様は、話半分、気の利いたあいづちも打てなかったけれど、張文遠にファンタジーに共鳴するメンタリティを要求していない奥様は、あまり意に介した風もなかった。
「パート2の公開は3月だそうだ。
 …観に行こう」
「誰とかね?」
 微妙にすれ違ってしまった会話に、奥様は拗ねてしまう。
「………夏侯室長と、とでも云ったら、あなたは本気にするだろうか」
「映画は、一緒に見て楽しめるひとと見るのがいい」
「答えになっていない!」
「誰のところで浮気をしても、かまわんよ」
「……!」
「必ず戻ってくると信じているから」
「存外あなたは自惚れ屋だ…」
 少なくとも、楽天家であることは、間違いない。



 引き続いてのプログラムは……
 AV機器の操作はあまり得意ではない旦那様が、独力でなんとかセットしたタイマーで録画した、シルクロードの風物や文物を紹介したドキュメンタリー番組を、見るともなく、再生する。
 秋霜烈日の砂漠に埋もれ、千年を超える忘却のなかに眠っていた人々の、栄華の残影を、カメラは克明に映し出している。
 往時を偲ぶよすがのみが虚しく朽ち果ててゆく遺跡は、人間の…文明の…時の流れに対する敗北の象徴であるのか…それとも。
 死してなお、千年の命を生きた、いにしえびとの、永遠の憩いの王宮なのか。
 問うならば。
 天上天下のことごとくを内包する…張文遠の愛妻は、なんと答えることだろう。
「コーヒーを淹れるが、あんたもどうかね?」
「遠慮しておこう。
 眠れなくなってしまうから」
 奥様が、眠れなくなってしまう別の理由の張本人は、キッチンへと立ちながら、薄く笑っただけだった。
 好物の、半生タイプの猫缶を、命の恩人に『お正月だから特別』にご馳走してもらい、満ち足りた猫たちは、カタログに載っていたのを見よう見まねで張文遠が片手間に作ってしまった『猫ハウス』…籐のバスケットにドーム状になった蓋のようなものがついていて、箱やら袋やらにもぐりこむのが大好きな猫が喜ぶ仕掛けになっている…で三匹仲良く熟睡している。



 しばらくして、柔らかに、芳醇な一種独特のアロマを感じさせるコーヒーの香りが漂ってきた。
 ことさらに自己主張するわけではないが、張文遠はこれでどうして食べるものには一家言の持ち主だった。
 昨今の『健康志向』などまったくおかまいなしなので、血中コレステロール値を気にする方々やダイエットに神経を尖らせる方々がそのこだわりを知ったなら、卒倒しかねない、ある意味見事に時流に逆行した嗜好であったけれど。
 奥様と旦那様が、どういった按配でくつろぎのひとときを過ごしているかといえば…



 玄関脇の、郭奉孝が『書斎』と呼んでいる物置部屋から溢れた書物が、リビングルームを侵食している。
 この家で、書物のないのは浴室だけだ…
 話題がもういちど、第一印象の件に戻ると、郭奉孝は、少し、意地悪に、旦那様に、尋ねた。
「いつでもどこでもマイペースの張文遠どのも、ときにはひとさまの目が気になると云うことか」
「あんたの眼だから気になるのさ」
 デザイン性と機能性に優れることで定評のある北欧の家具のなかでも、奥様のお眼鏡にかなった工房の椅子には特に高い評価が与えられていた。
 一人掛けながら、背もたれの高い、ゆったりとした座り心地のいいソファは、郭奉孝のお気に入りで、偉丈夫…と形容できるほど大柄な張文遠であっても、楽に体を預けることが、できた。
 ソファに身を沈め、奥様を横抱きにして膝に載せ、左腕でその背を支え、ソファの傍らに山積になった書籍をサイドテーブル代わりにして、深煎りのローストにしたモカを粗く挽いて、ネルドリップで落としたコーヒーを、すっかり冷め切ってしまうまで抛りっぱなしにしておきながら、ゆっくり飲むのが、張文遠の至福だった。
「ここにある本は、みんな読破してしまったのだろう?」
「9割9分方は」
「そして、内容はすべて頭のなか、と云うわけだ」
「ほぼあらかたは」
 家に置くものについては箸置きひとつまで徹底的に自分の審美眼を第一にする郭奉孝が、贔屓のホームウェアのブランドショップの本店でペアで購入してきた…つまり、奥様から贈られた、記念すべき最初の品に手を伸ばし、コーヒーにはさほど執着のない郭奉孝が『どこがおいしいのやら』と、首を傾げる冷め切った褐色の液体を咽喉の奥へと流し込むと、旦那様は、いつも不思議に思っていたことを、口にしてみた。
「読んで憶えてしまったものが、それでも手元に置いておきたいほど、必要なのかね?」
 きょとん……
 旦那様の云わんとする意味を、一瞬、量りかねた奥様は、脣をほんのわずかひらいて尖らせるようなしぐさを見せると、肩をふるわせて、笑い始めた。
「…奉孝?」
「あなたの合理精神には、感服する」
 ――書物というオブジェに愛着を感じないひとには到底理解が不能だと思うのだが…
「持っているだけで嬉しい…と云うか…まぁ…ライナスの安心毛布みたいなものだ」
「……ますます判らなくなった」
「?
 曹主席はこの説明で納得したのだが」
 そもそも張文遠は、ライナスが世界で一番有名なビーグル犬の出てくる漫画の登場人物であることを知らず、その彼が、肌身離さず自分の心の安定を得るために引きずって歩いているアトリビュートが、いわゆる安心毛布であることを、知らない。
「曹閣下なら、それで十分だろうが…」
 抽象的な、たとえ話は、苦手だよ。
「赤は赤。
 黄色は黄色。
 青は青。
 …言葉と事物が分明に結び合わさっていてくれないと、俺の頭では理解が難しい」
 ――必要最低限以外のことは、憶えていられない性分でね。
「あなたにとって、世界とは…
 とても明快なものなのだろうな」
「かも知れないな。
 あんたがいて、俺がいる…それで、すべてだ」
 ――それ以上、なにが必要かね?



「奉孝…」
 苦味のつよいコーヒーの、あと味の残るKISSをくれる。
 むかし…誰かが云っていた。



 恋とは、相手の何%を占めることができるかを競うゲームだと。



 きっとあなたはわたしの世界の100%。



「なぁ、奉孝?」
「……ん……」



 ―――ほんとうに、憶えていなくてはならないことが、いったい…人生のうちにいくつあるのだろう?



「あんたの誕生日と、結婚記念日だけ、忘れなければそれでいいような気がするが…
 あとは……」
 云いさす旦那様の科白に被せるように、奥様、いわく。
「そんな些細を後生大事に憶えていて、どうなると云う…
 人生においては数少ないかも知れないが、実生活においては数限りないと思われるが」
 …云ってしまってから、その、実生活ですら、郭奉孝より張文遠のほうが数等上手に世間をうまく渡っている…と云う事実に思い至り、なぜだか…奥様は……



「ぃ……ほうこぅ……なにをする……」
 ぎゆぅっ…
 悔しまぎれに旦那様の頬を力いっぱい、つねってみる。
「負けた気がするのは、なぜだ?」
「…は?」
「考えても見よ。
 わたしとあなたはさほどに年が変わらないはずなのに、あなたの言葉はとても深い経験に裏打ちされているようで、いつも、わたしを黙らせる」
 森羅万象のさらに向こうにも、知らない世界があるのだと……
 垣間見せてくれる。
「ひとというのは、さまざまなもので、な、奉孝」
 ――八十年を平穏に過ごすひともいれば…
「苦難のなかで四十年を全うするひともいる」
 いい悪いの問題ではなくて。
 それが天命というものなのだろう。
「ただひとつだけ云えるのは。
 年齢と経験の多寡は正比例しないと云うことくらい、かな」
 ――持って生まれた幸運で、何の苦労もせずに生涯を安楽に過ごせるなら、それはそれで、よいことだ。
 ほんとうに、生きたと云えるかは別として。
「この世の誰も、別の誰かの人生を生きることはできないのだから」



「智慧のまえに、知識など無用と云うことか」
「俺は…あんたの云うことに、全幅の信頼を寄せているよ」
 ――知らないことはなんでも、たちどころに答えてくれる、博学と博識を、尊敬している。
「…信頼と云うよりは、盲信ではないか……
 もしもわたしがあした血の雨が降ると云ったら…信じるのか?」
「……愛ゆえに」
「……莫迦」



 信頼よりも愛がある。



 たとえどんなに遠く離れてしまったとしても。
 忘れずにいてくれる。
 その心のありかたを……



 愛と呼ぶよりほかになく。

 





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2005年1月 7日 23:45)
文責:市川春猫