『愛しているのはあなただけ』




 〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋をしごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍師だったのです〜



 悪いことのあとには、いいことが出番を待っている…と。
 ずいぶん昔に世を去った詩人が、云ったそうだ。



 旦那様の家財道具と云えば、飼い主に忠実な猫が三匹くらいのもので、そのほかにめぼしいものなどなにもなかったけれど…
 たった一冊、とてもとても大切に、コートのポケットに、人目を忍ぶように滑り込ませた薄い文庫本が、張文遠の愛読書だと知ったとき、奥様…郭奉孝は、ずいぶんと意外な感に、打たれたものだった。
 無人島に、一冊だけ持って行けるとしたら…
 ありふれた質問に、答えることが出来ないのは郭奉孝のほうで、張文遠ならば、即答するだろう。



 ………、と。



「あんたみたいに生真面目だと、生きているのが辛くはないのか?」
 婚姻届にサインをするのと引き換えに、禁煙させられた張文遠は、それでも…時には奥様を拝み倒して煙草に火をつけることがある。
 そんなときはいつも、ベランダに放り出され、煙草の匂いが取れるまで、戻ってくるな、と、言い渡される。
 凍てつくような星空の下。
 宮城の外苑の、鬱蒼と生い茂る背の高い木々の梢のその上をざわめかす、風の余韻に吹き流されて、紫煙はいつか、拡散されて、どこにともなく消えてゆく。
 毎年の健康診断で、肝機能の低下を指摘されていたにもかかわらず、いまだにアルコールと縁を切らない郭奉孝は、煙草にだけは、奇妙に神経質なところを見せた。
 ……百害あって一利なし!
 ニコチン中毒とまではいかないまでも、一日の、多事多端なさまざまの、ほんのわずかな息抜きに嗜む一服がもたらす開放感は、何物にも代えがたい至福なのだけれども…



 たぶん、きみには、わからない。



 相手をよかれと思い遣ることが、逆に…
 相手を苦しめるなどと…



 たぶん、いっしょう、きづかない。



「なぁ……」
 特徴を述べよ…と、云われたら、十人中九人までが挙げるであろう…きつく吊った真夜中の猫のような眸で、痛いほどの視線の靭さで真っ直ぐに瞶められて、それを心地よく思うのは、まず以って、五指に余るほどしか、居ない。
「わたしのどこが、そんなに良かったのだ」
 疑問を疑問のまま、そのままに…残すことを良しとしない郭奉孝は、時おり思い出したように、答えのない疑問を、張文遠に投げかける。



 目に見えないものに形を与えるのが言葉なら…
 言葉が存在しなければ、目に見えないものは存在しないのだろうか?



 ……愛……と、ひとは容易く口にする。



「生きて歩く欠点みたいな人間なのだぞ?」



 だれもが、そうだ。
 ひとはだれも、生まれながらに未完成な生きもの。
 だから。
 たがい、たがいに足りないものを持った存在を、もとめ、もとめて…
 ひきつけあうのだ……
 心に響く……
 声なき声に導かれ……
 いつか、いつか…めぐりあう。



「思っていることはすぐ顔に出るし」
「表情が豊かなのさ」
「相手を許すことが出来ない」
「公正であることは、傍目には狭量であるように見えることもあるさ」
「棘のある物言いしかできないし」
「レトリックが多彩なんだろう」
「かなり、することが大雑把だ」
「合理的なんだろう」



 あんたのその、実に前向きな善意の解釈はありがたいのだけれども。



「その調子でいくと、世の中に欠点のある人間はいなくなるのではないか?」
「欠点だの長所だのは、結局は同じ現象の裏と表だと思うのだがね?」
「……」
 粘り強さと執念深さ。
 思い遣りとお節介。
 心配と干渉。
 元気溌剌と傍若無人。
「なにごとにも明と暗…陰と陽…
 ひとつの事象は表裏一体で、光があれば、闇がある」



 切り離すことは、できない。



「驚いた……」
「驚いた?」



 風に揺れる木々の音が、遠い波濤のように聞こえてくるベランダで…隣に立つ人を見上げて、郭奉孝は、云う。
「武辺にのみ生きる男だとばかり、思っていた」
「あんたの洞察は間違いではないと思うがね?」
「その詭弁の弄し方は、いっそ、讃嘆に値する。
 あんた、詐欺師になれる」
 黒いカラスも白くなり…飛べないダチョウも空を飛ぶ。
 丸い卵も切りようで四角。
 あんたが囁きかけるなら、太陽は西から昇ると信じるだろう。



 そうやって…
 死ぬまで騙して……



「莫迦ではなれないだろうから、褒め言葉に受け取っておこう」
「ば、か、な、の、だ!」
「何もそんなに強調しなくてもよくはないか…?」



 ――惚れちまったらアバタもエクボ、さ。
 見なくて済むものならば、見ずに済ますのがいい。
 見ることは、知ること。
 アダムとイブは、知ってしまったがゆえに楽園を追われたのではなかったか…?



「この世は、二律背反の矛盾を抱えていることをご存知の文遠どのは…お判りだろうな」
「…ん?」
 遠い、摩天楼の光が、蜃気楼のよう……
「物事には虚と実の皮膜があることを」
 だから…あえて、こう、云おう。



 愛しているのはあなただけ。



「死ぬまで信じることにしよう」



 ひとはいつでも、信じたいものしか、信じはしない…
 たとえそれが、言葉のうえの幻であっても。
 幻ゆえに、真実は宿る。





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年12月16日 22:36)
文責:市川春猫