『だから、愛でしかない』
〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋をしごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍師だったのです〜
『自分』とは、この世で一番身近な『他人』
「文遠!」
雪が、降った。
この年末に、雪がちらつくだけでも珍しいことなのに、地球の滅亡も近いのか、昨日、夕暮れから降り始めた雪は、熄む気配も見せず、太郎を眠らせ次郎を眠らせ、降りつみ降りつみ降りつもり…帝都の交通機関をことごとく麻痺させて、世の中を一面の銀世界としてしまった。
御用納めの次の日で、日ごろは日を夜に継いで公務や雑務や私事や…その他もろもろの多事多端に忙殺されている曹孟徳も、年末年始の数日間だけは、私邸でゆっくりと骨休めをするのが慣例だった。
身辺警備のための特殊任務に当たる部署の面々には盆も正月もなかったけれど、それでも交代で休みをとり、それぞれ所帯を持っているものは家族サービス、独り者はそれなりに楽しみを見付け、思い思いの短い休暇を過ごすことができるように取り計らわれていた。
『里に帰省します』
…と、云い置いて、いそいそと嬉しそうだったのは荀公達で、降り積もった雪をモノともせずにずんずん先を行ってしまうご主人の後を小走りに…雪に足を取られながらも健気についてゆく後ろ姿を四階の東南の角部屋のベランダから見送って……さて、うちの旦那さまは…と、思いきや。
氷点下の気温のなかを、見ているほうが寒くなるような薄着で…奥様の推察するところ、張文遠には痛覚と云うものが欠如しているような嫌いがあるのだけれども…土木作業用の無骨で持ち重りのするスコップを片手にアパートの廻りの歩道で管理人と一緒に除雪にいそしんでいるではないか。
先ほどまでは、この雪のなか自動車で出かける用があると云う2階の住人に頼まれて、タイヤにチェーンを巻くのを手伝っていたし…それより前は、凍結した水道管をなんとかしてくれと1階に住む老夫婦に泣きつかれて水道屋の真似事をしていた。
もっと早くの今朝がたは、なにを思ったか高い木の上に登って降りてこられなくなった三階のオールドミスの飼い猫ミケを救出していたし……
「奉孝!」
ベランダの手すりから身を乗り出すようにして階下を見おろす愛妻を、眩しそうに左手をかざして見あげながら、満面の笑みを浮かべる。
ああ……と。
北風に、昔どこかに確かに居た子どものように、頬を紅く染めながら、あどけなくさえ見える無邪気な笑い方に、奥様は、胸の奥底の深い場所が、きりり…痛む。
きっと…この男の面影には、幼な顔の名残りがそのままとどめられているのだろう。
「どうしてあなたというひとは!」
なんでも自分のことは後回しなのだ。
頼まれたら、イヤと云わないのか云えないのか…それはこの際、どちらでもよい。
「ひとさまの面倒を見られるほど、余裕のあるのも、結構なことだ」
「…何か、怒っているようだが……」
「怒っているのではなくて、呆れているのだ」
「…奉孝?」
「便利重宝にていよく利用されているだけだと思わないのか」
「…誰かの役に立つのは、幸せなことだ」
区切りのいいところでお昼時となり、愛妻が待っている4階の角部屋に戻ってきた張文遠は、この年末だというのに、大掃除さえする気がなく、もちろんお正月のご馳走さえ作る気は皆無に等しい奥様に、玄関先で捕まえられて、こんこんと、意見を賜ることとなった。
郭奉孝にしてみれば…
せっかくの休暇をボランティアで費やそうとしている旦那様が、なんとも歯痒い。
こんなときくらい、自分の思ったとおりの我が侭で、一日を過ごしてもいいはずなのに。
「目下の者には親身。
目上の者には親切。
雇い主には忠実で…
このわたしには誠実だ」
「判ってもらえて嬉しいよ」
別段、小柄なほうではない郭奉孝と、それでも優に頭ひとつ半は身長差のある張文遠は、背の高すぎる男が時おり見せるわずかばかり猫背気味に背を丸める仕草で、この世の誰より愛しいものの顔を覗きこむ。
「気に入らない!」
「…?」
「聖人君子に過ぎる」
「……」
「そんなに誰からもいいヒトだと思われたいのか?」
「誰かが、俺を頼りにしてくれるなら、できうる限り、それに応えたいと思うだけだよ」
「見返りも求めずに?」
「ありがとうの一言があれば、それでいいのだがね?」
「あなたは世界一のお人よしだ」
「…奉孝」
よしよし…と。
子どもめいて細く柔らかな、ゆるく波打つ漆黒の絹糸のような郭奉孝の髪を撫で、張文遠は、そのまま胸に抱き寄せる。
「情けは人のためならず…と云うだろう」
奥様の、柔らかな髪に、節くれて、年齢以上に細かな皺の寄ったゆびを絡めて、あやすように、耳許に、囁く。
「因果応報、とね」
結果には、必ず原因がある。
「俺は…きっと……
裏切るよりも、裏切られるほうが気が楽な人間なのだと…思うよ」
「文遠…」
ひとを…傷つけてしまったあとで、後悔する苦味を噛みしめるより…
おそらくは。
裏切られたあとで、自分は相手に対して疚しいことはなにひとつしてはいなかった…と、安心したいのさ。
「ずるい…男だ……」
耳許に寄せた唇が、首筋に流れ…左のくすりゆびが、郭奉孝の鎖骨の上をゆるくなぞるように滑ると……
それは……
合図。
「……はうっ」
ココデ、シタイ。
めをとじて、ふれて。
「…文遠……ぁ……」
不思議なことに、ひとは……
快楽に溺れるときも、痛苦に耐えるときも…傍目には弁別しがたい表情を、見せる。
「だめ……」
背骨のなかで…蒼い火花が散るような…
愉悦をくれる、ゆびさきに惑わされ…
「あ…」
衣服の下を、潜り抜けてくる、乾いた砂のような熱を帯びた肉の厚い手のひらが、ざわり…背筋を撫であげる。
「こんなところで…」
「場所など、どうでもいいだろう?」
イマスグ、ホシイ。
「どうでもよくなんかない!」
耳朶はおろか、首筋までも、桜色に染めて…思わず高くあげてしまった自分の声を羞らいながら、ほんの少し、トーンを落として、いや…と、旦那様の愛撫から身をよじるようにして、云うことには。
「こんなところでしたら……
声が…隣に筒抜けになってしまう」
「俺はまったくかまわないんだがね?」
――と、云うより…な、奉孝。
「どうにも、火がついてしまったようで…
もう…とまらない」
「…莫迦」
こればかりは…後回しには、できない。
「文遠…」
声は、甘く溶けて、重ねた唇のなかに嚥まれて、消えた。
「奉孝…相談なんだが」
「こんなときに、難しいことは、云うな」
「…家を、買わないかね?」
やわらかく、ありなしのちからで、われながら、なぜと首を傾げるほどに敏感な鎖骨を甘噛みされて、思わず背筋を反らせてしまう。
「…家……?」
守りたいもの。
守るべきもの。
大切なものを大切にしまっておくには…それ相応の入れ物が必要だろう?
「大事にする…と、誓約したから」
「文遠…」
遠い昔の…誰かの科白を思い出す。
世の中は、たかが、世の中。
けれど。
世の中は、されど、世の中。
『たかが』と『されど』ではない物事など、この世には、存在しない。
ああ……まったく、この男には、敵わない。
「あなたは…悪い男だ……」
―――まだ日も高いうち…わたしを惑わせ、狂わせる……
だから、愛でしかない。
苛立たしいほど、お人よしなあなたに感じるこの気持ちは…
たぶん…
愛と云うよりほかなくて…
ここからさきは…
あなたを独り占め。
That's all over.
||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2005年1月 3日 23:03)
文責:市川春猫