『愛は異なもの味なもの』




 〜奥様の名前は郭嘉。そして、旦那様の名前は張遼。ごく普通の二人はごく普通の恋を しごく普通の結婚をしました。でも…でも、たったひとつだけ違っていたのは、奥様は軍 師だったのです〜



 ―――それでも地球と廻っている。



 何故だかは知らないけれど、緑の多い都会のオアシスのような宮城のほど近くに建っている、築三十年の四階建ての、鉄筋コンクリートの打ちっ放しに蔦の絡まるアパートの東南角の最上階に最愛の奥様と飼い主に忠実なる猫三匹と住み暮らしているこの男には、奇妙な廻りあわせがあって……猫や犬は云うに及ばず、カメ、ウサギ、ハムスター、プレーリードッグにアライグマ、十姉妹にヒキガエル…果てはいったいどうやって拾ったのか、金魚まで…何でも拾って帰ってくる。
 そのたびに…



「文遠〜〜〜〜!!」



 生き物の世話があまり得手ではない奥様が、思わず悲鳴をあげて……
 ……奥様の気持ちも判らないではない。
 何の前触れもなしに玄関先にメガネカイマンがいたら、それは、誰だって驚くことは間違いない。



「あった場所に返して来い!」



 と、云い渡すのだけれど、不思議なことにいったいいつのまに顔繋ぎをするものか、張文遠と云う男…交友関係が広く、人脈が深いので…拾った動物の引き取り先にはこと欠かず、たいていはとてもうってつけな落ち着き先を見つけてしまう。
 いかにも頼りになりそうに見えるのか、ふたりで往来を歩いていても、通りすがりに道を尋ねられるのは決まって旦那様で…とりわけてお年寄りには親切な張文遠は、わざわざ逆方向でも、目的地に送り届けてしまうことが多々あった。



「あなたと云う人は、とうとう人間まで拾ってきてしまったのか」
 と、云うより、それは。
「拐(かどわ)かしではないか!」
 犯罪だぞ、犯罪。
 後ろに手が廻るのだぞ。
「奉孝…?
 どうした?」
 その日も…朝早く出かけてゆき、日付が変わるころに帰宅した張文遠は、とりたてて疲れた様子も見せずに、シロ、クロ、トラにお出迎えされて、奥様が録画したテレビドラマを見ているリビングへと、入ってきた。
「……いや」
 きつく吊った、喜怒哀楽をくっきりと映し出す眸を、瞬いた。
「文遠…それは?」
 たしかに。
 むっつななつほどの女の子が、張文遠に手をひかれて、立っていたのだ……
「可愛いだろう?」
 奥様の目の前にかざすようにして、お披露目したのは、やけに目許に険のある、多少薄汚れてはいるけれど、ずいぶんと贅沢な着物を着せられた市松人形だった。
「見るところ、伝統的な日本の人形らしい。
 ずいぶん古いもののようだから、骨董的な価値のあるものかもしれない」
「目が合って、どうにも気になるから、拾ってきた。
 あんたに、似てるな」
「……目つきの悪いところが、だろうか?」
「……俺には実に婀娜めいて見えるんだがね」



 遅い夕食のあと、やっぱり『奥様は軍師』を見物している郭奉孝の傍らで、張文遠は人形の汚れを丁寧に落としてやっていた。
 三匹の猫たちは、遠巻きにその人形を見詰めている。
「手の込んだ人形だ」
「…ん?」
 CMを早送りしているあいだ、旦那様が大切に抱きかかえている人形を一瞥して、奥様は、博識なところを、垣間見せた。
「膝が曲がり、正座することができ、肩と足首に関節のある人形のことを別名三つ折り人形と云う。
 それは間違いなく骨董品だ」
 器物は…百年を経たならば妖怪に変化すると云うから、文遠…見込まれないように気をつけることだ。
「大丈夫」
 ほんのわずかにひらいて、いまにも何か云いたげな唇に残るほこりの汚れをふき取ってやりながら、張文遠は、いつものどこか無防備に無邪気な…けれど、その本心がどこにあるのか窺い知れない曖昧さのある笑い方を見せながら、人形に話しかける。
「ちゃんと大事にしてやれば、気持ちは通じるものだから、な…お嬢ちゃん」
 粋を凝らした、人形の身にまとう着物の縫い取り模様の絢爛さは、時の流れに風化して、褪せた色合いに沈んではいたけれど、人形のそもそもの持ち主にとって、この人形が宝に等しいものであっただろうことは、想像に難くない。
 そして…人形を誂え購った人物にとって、人形を与えた存在こそが宝であったことも。
「人形など、無機物に過ぎない」
「どんなものにも、心がやどるものだ。
 形あるものは、いつか壊れる。
 だが、ね…奉孝。
 大事にすれば、その、いつかがほんとうに、いつかの遠いいつかになる」
 この世に形として存在するものは、みな、すべて……
「さて…少しは綺麗になったな。
 美人だな、お嬢ちゃんは。
 なぁ、奉孝」
「…なんだ」
「これは日本の人形なんだろう?
 日本の女の子の名前には、どんなのがあるのかね?」
「……ひとつ、訊いてもいいだろうか?」
「なんなりと」
「なんにでも名前をつけるのは、あなたの趣味なのか?」
「…名前があると云うことは、つまり…それが唯一無二の存在であるという証明だろう?」
 名前などと云うものは、固体識別のための記号に過ぎない…と切り返せば、なかなかどうしてセンチメンタルに繊細なところのある旦那様を悲しませるだろう…と、奥様は、ほんの少し、肩をすくめながら、云った。
「たいてい…そういった形式の人形には、お菊と云う名前がついている」
「さすが、奉孝は何でもよく知っている」



 まったく…ウチの旦那様の物好きには、あきれるよりほか、ない。



「……ぁ………文遠………」
 夜の闇にまぎれ、忍びよるのは、左手。
 そこだけ成長を忘れてしまったのか、すらり…形よく伸びたほかのゆびに比べて、こゆびだけが、バランスを崩して、わずかに短い。
 妙なところだけ、父親に似たものだね…と、お袋が笑っていた…
 昔語りをせがんでも、断片しか口にしない男が、呟くように云ったのを、郭奉孝は、鮮明に憶えている。
「あしたも早いのに……」
 こうして…ふたつ枕にひとつの褥で身を寄せあっても、剰余の肉など何ほどもない郭奉孝の躰は、ひやりとうす冷たい。
 まるで…生きた人形のように。
「………」
 身を案じる咎めだては、かさねあわせた唇のなかに、消えた。
 視線を感じる……
 カーテン越しに、斜めに差し込む上弦の月の明かりに蒼く澄んだ闇のなか……
 瞬きもせずに見詰める何かの視線……



 目が醒めたのは、ご飯の催促に、三匹の猫がいっぺんに郭奉孝の眠っているベッドの上に飛び乗ったから。
 与えるものが、貪ったのだ……
 全身に気だるく残る倦怠感には、一抹の寂寥と、儚いながらも余韻の拡散してゆくのが惜しまれる仄甘さが、あった。
 眠りの浅い郭奉孝の、目を醒ますことなく身仕舞いを整えて出て行ってしまった張文遠の気遣いに、男のこれまでの人生の越しかたを、思う。
「…優しすぎるのだ……いつだって……」



 日は高く、空にはかけらの雲もない。



 寝乱れたまま、リビングへと、足を運ぶ。
 もつれるようにして、三匹の猫たちもそれに従った。
 お気に入りの一人掛けのソファに、市松人形は行儀よく、正座している。
 それがつくりであるのか、小首を傾げ、吊り上がり気味の黒目がちな瞳をテレビの画面に向けている。
「テレビ、見たいのか?」
 話し掛けてしまってから、自分が何やら旦那様に感化されてきたような気がして、知らず、奥様は憮然とする。
 それでもリモコンを操作して、さほど面白くもないバラエティ番組にチャンネルを合わせようとして、液晶の画面に浮かび上がった映像に、目が釘付けになる。
 深刻な顔つきのキャスターが、早朝に起きた未曾有の地下鉄火災について新たに判明した情報を伝えていた。
 テロであるのか、放火であるのか、それとも別の理由があるものか、朝早く、通勤客を満載した地下鉄が火災を起こし、大多数が死傷して、なおも被害は拡大していると報じられている。
「……嘘だ」
 消防車が何台でようとも、狭いトンネル内での消火活動がはかどるわけでもなく、手をつかねて燃えるに任せているような状況がライブ映像として映し出され、どうにか救出され、病院へと救急搬送される乗客の痛々しい姿が惨状の凄まじさを訴える。
 火災のあった時間帯。
 火災を起こした地下鉄の路線名。
 思い合わせれば…
 その電車には、十中八九、張文遠が、乗っている。
「……文遠」
 奇妙なところで几帳面な旦那様は、いつも同じ時刻の電車、同じ車両の同じ場所を定位置にして、曹孟徳の後援会事務所に出勤する。
「どうすれば…」
 ……携帯電話!
 いまどき通話しかできない、かなり旧式ですぐにバッテリの上がってしまう携帯電話の番号は、記憶に刻まれている。
 キッチンとリビングを隔てる対面式のカウンターの上に置かれた電話の受話器を取り上げ、ふるえるゆびでこれまでに、いちども掛けたことのない番号を、呼び出す。
 ――お客様のお掛けになった電話番号は、現在使われておりません……番号をお確かめのうえ……
「文遠……!」



 奉孝、心配はしなくていい。
 殺されても死なないような気がするから。



「大丈夫だよ」
 気がつくと、むっつななつほどの、黒い豊かな髪を、頤の辺りで切りそろえた、きのう確かに見た憶えのある着物姿の女の子が、郭奉孝の傍らに立ち、見あげて、云った。
「助けてあげたから」
「……あなたは……」
「あたし、お菊。
 あなたがそう云ったでしょ」
 ……きっと。
 ………気が動顛していて、ありえざる幻覚を見ているのに違いない…と、郭奉孝がその迷夢を醒ますために二度、三度、首を横に振った。
 …にもかかわらず。
「あのひと、いいひと。
 だから、助けてあげた」
 吊り上がり気味の眼を、さらにきゅぅっと吊り上げて、お菊と名乗る不思議な童女は、つつましく小さな口許に、そのあどけない顔立ちには不釣合いな老成した微笑を浮かべた。
「ねえ?
 あなたの信じている現実なんて、それこそが幻想なのかもしれないって、思ったことは……ない?」



 自分の視線の届くより向こうの『世界』が…ほんとうに…存在しているかなんて、いったい誰がどうやって確かめるの。



「人形にはね。
 命はないけど、魂はあるのよ」
 着物の袂をひるがえし、お菊人形は、軽やかに一人掛けのソファに飛び乗ると、背もたれにひじをつき、組み合わせたゆびの上に頤を載せて、郭奉孝を凝視した。
「あのひとには、わかるのね。
 きっと、あのひとの見ている『世界』はあなたの見ている『世界』とは、違う」



 でもね。



「心配しなくていいのよ。
 それぞれに、それぞれの世界があって、だから、この世が成り立っている」



 もしも。



「なにもかもが自分の思い通りの世界があったなら、そこは…
 『世界』で一番退屈な地獄だと、思わない?」



 ソレハ、夢カ現実カ。



「!?」



 手にしたコードレスの受話器が着信を知らせ、単調な電子音が、断続的に流れた。
「もしもし?」
 この家の電話番号を知っているのは、限られた人物のみ。
「奉孝かね?」
「文遠!?」
「心配を掛けてしまっただろうか?
 今ごろ目を醒まして、テレビを見たらびっくりしているんじゃないかと思ってね」
「無事なのか!?」
「かすり傷ひとつないから、安心……
 奉孝??」
「安心なんかできるわけないだろう!
 どこにいるのだ!?」
 ―――今すぐ逢いにいく。



 騒ぎがひと段落ついて、張文遠が郭奉孝と我が家に帰りついたのは、そろそろ日付の変わる頃合いだった。
 問われて答えるに…
『電車を待っていたら、向かいのプラットホームであんたが手招きしているのが見えた』
 他人の空似にしては、あまりにもよく似ていたから、確かめようとして…
 電車を一本遅らせた。
 結果として、それが命拾いに、なった。



 さて。
 ありきたりの怪異譚ならば、事件が一件落着したあと、因縁話のもととなった人形は忽然と姿を消してしまうのが常套なのだけれど。



「お嬢ちゃんが?
 動いて口を利いた…?」
「驚かないのか」
「いつも云っているだろう?
 あんたの云うことなら、何でも信じると」
「それは危険思想だから改めよ」
「この世というものは、どんな不思議なことでも起こりえるものさ」



 世界で一番の不思議は…



「ここでこうしてあんたと俺が一緒にいること…
 違うかね?」



 あたりまえ…と、気にも留めずに顧みもしないささやかな日常のありきたりこそが、あたりまえであるがゆえに奇跡と同じ価値を持つのだ…



 愛は異なもの味なもの。



 リビングの、液晶テレビの横に、居場所を与えられたお菊人形が、きちんと行儀よく正座して、小首を傾げて、いつものごとく膝の上に奥様を載せてくつろいでいる旦那様を注視している。



 窓の外は青い月夜。



「文遠…」
「ん?」
「同じ夢を見て眠ることはできるのだろうか」
「…あんたが望むなら、どんな夢でも見せる」



 だからいつまでも。
 夢見る頃を過ぎても。





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2005年1月19日 22:41)
文責:市川春猫