『優しくて、やりきれない』




 その男は、とても贅沢なので…
 欲しいもの以外は何も要らない、と…云う。



「職責を果たしたあと、俺がどこで何をしようと、かまわないだろう」
 人材の登用についての質疑応答を終えて、曹操と手合わせした囲碁の勝負に、ありえないほどの呆気なさで三連敗した郭嘉は、その日、機嫌がかなり急勾配に傾斜していた。
「…ならば、その科白はそっくりそのまま、あんたに返すとしよう」
 つきまとうように傍を離れず、この、歓楽街の裏路地の場末にまでついて来た、張遼にまで剣突を喰らわせるほど、始末に悪い拗ね方をしていた。
 負けず嫌いなのである。
 自分が得意とする分野で、たとえ相手が人外の魔王と呼ばれる曹操であっても、負けるのは、悔しい。
 どうにも飼い馴らすことのできない、複雑にねじれた感情を宥めるにはどうするか…
 ――酒を呑む……
 それがいちばん、手っ取り早い、気分転換の方法だった。



 雨もよいの、黄昏どき。
 降り出したなら、夜通しの雨になりそうな気配の空に、鳥の影さえ見えなかった。
 こんな日は、客足も落ちるのか、口開けしてまもなくの時刻の酒楼はどこも、奇妙にもの寂しく、閑散としていた。
「酒はひとりで呑むことにしている」
 元来が、ひとに歩調を合わせるということを、知らない。
 気ままに好きなことを、好きなように…手前勝手が、森羅万象を識るといわれる生粋の軍師の流儀だった。
「独りで呑んで、うまいかね?」
「うまいうまくないの問題ではない」
 …酔えれば、いいのだ。
「寂しいな」
 盃に、燗冷ましになってしまった酒を差そうとする張遼の手を追い払うようにして、郭嘉は、云う。
「孤高であると云ってくれ」
 だいたいにおいて……
 ことあるごとにあんたは俺に干渉しすぎだ。
 あんたみたいにごつい母親を持った覚えは、ないぞ。
「誰にでもお節介と云うわけでも、ないさ」
「どうにも解せないのが、あんた、俺といて、楽しいか」
 一瞥しただけで、後々までその印象が記憶に残る、きつく吊った眸を、まっすぐに張遼に向けて、じ…っと、瞶める。
 これほどの強さで注視されたなら、たいがいの人間は、いたたまれずに目を逸らすものだが、張遼は、口許に薄く微笑を浮かべて、生まれたての小さな生き物を見るかの眼差しで、郭嘉を眺めている。
 …判らない。
 眉宇を曇らせ、郭嘉は、思う。
 これまでの、ひととの関わりのなかで、こんな風な穏やかさで、郭嘉を見やるものなどは、いなかった。
 なんと、形容すればいい?
 この不可解を。
 手酌で盃を干し、女将に適当に見繕ってもらった肴をつまみ、張遼は、ゆっくりと、季節の味わいを、愉しんでいる。
 疑問には、回答を与えなければ、どうにも気のすまない郭嘉は、張遼の沈黙に我慢しきれず、自問自答してしまう。
「どう考えても、愉快とは云えない筈だ」
「…なぜかね?」
 問われたことに、答えずにはいられないのも、郭嘉が、郭嘉たる所以の…習い性となってしまった、律儀さだった。
「ヒトをヒトとも思わず、揚げ足は取りたがるし…酒癖は悪い…生意気で…愛想もないし…抛っておけば自分だけ喋っているし…ヒトの意見には耳を貸さない…気まぐれで…移り気で…気難しくて、偏屈だ」
 こんなのが傍に居たって、楽しいわけないだろう。
「…そこまで自己分析が出来るなら、立派なものだ」
「…一言も否定しなかったな」
「あんたの意見を尊重して」



 優しくって、少し意地悪。



 口ほど強くはない酒に、自分の躰を苛めるようにして、なぜ…酔いに正体をなくすほど、浸るのか。
 頭の良し悪しが記憶力で測れるものなら、確かに…郭嘉は千人…万人と競ったところで負けはしないだろう。
「なぁ……郭嘉…どの」
 勘定を済ませ、酒楼を出ると、いよいよ空は、低く地上を覆いつくした雲に薄暗く、湿気を含んだ風が、強さを増していた。
 いつものお決まりの科白が、返ってこない。
 眠り込んでしまった郭嘉を背に負って、自邸へと、張遼は足を向けた。
「知っているから判っている…とは、限らないものだな」



 人生には、無数の問いがあるけれど。
 答えはいつも、ひとつだけ。
 けれど。
 その、たったひとつの答えにも。
 無数の意味が、ある。



 揺られ、揺られて、あやされて。
 張遼の、暖かに、広い背中で郭嘉はどこへ運ばれているかも知らず、目を醒ます。
「…張遼」
 凍えたゆびさきを、暖めてくれた。
 気が付くと、傍に居てくれた。
 逃げ出したいときに、勇気をくれた。
 戸惑うほどにたくさんの……
 優しい言葉を、くれた……
 あふれるほどに。
 おぼれるほどに。
 なのになにかひとつでも…
 あなたに応えることをしただろうか。
「存外…あんたはお人よしだ」
「……!」
「ひとの好意などと云うものには、黙って甘えていればいい」
 さんざん利用して、しゃぶり尽くして、おいしいところを喰い散らかして、あとは口をぬぐっていれば、それでいい。
 困らせて。
 嘆かせて。
 恨ませて。
 憎ませて。
 …それでも。
 虐げられるものには、すべて…歓び。
「奴隷状態の幸福というものも、世の中には、ある」



 夜も更けて、闇のなかに、雨の匂いが濃密だった。
「降ろせ」
「千鳥足で歩くつもりか…
 大丈夫かね?」
 云い出したらきかないのは、これまでの付き合いで、承知している。
 郭嘉を地面に降ろすと、手を引いて、歩き出す。
「子どもじゃないんだが」
「子どもじゃないが、似たようなものだろう」
「あんたは俺をなんだと思っているのだ?」
「こわれもの」



 優しすぎて、やりきれない。



 手を伸ばせば触れることが出来るのに、遥かに遠いものは、なんだ……?
 ――それは、あなた。
 遥か。
 遙か。
 遼かに……
 わたしの心を彷徨わせ……
 わたしの気持ちを惑わせる……
「なぁ…」
「ん?」
「やっぱり背負っていけ」
 どんな甘えも赦してくれる。
「お望みのまま」
 薄ら闇に、ふたり、ひとつの影になる。
「明日、雨が降ったら」
「騎馬隊の教練は休止だが?」
「じゃあ、いちにち…」
「囲碁の相手でもしようかね?」
 ふたりの影を…
 夜よりほかに、見るものはなし。
 





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年12月 3日 22:22)
文責:市川春猫