『翔ぶが、如く。』




 口の悪いが、玉にキズ。



 それが当人の地顔なのだから、目つきの悪いのをあげつらわれて、非難されても、如何とも、しがたい。
「器量にあらず!
 機を見るに疎く!
 兵を用いるに拙い。
 すなわち人の上に立つ資質なし。」
 頭痛がする…そう云い置いて、酒宴の席から曹操が退出すると、座は一気に緊張感をなくし、そのまま無礼講となってしまった。
 夏侯惇がいたならば、多少の歯止めとなったかも知れないが、曹操に付き添って、中座してしまったために、生憎とこの場を仕切るだけの貫禄を持ったものは、皆無と云ってよかった。
「なんだと!?」
 売り言葉に買い言葉。
 このふたりの酒癖の悪さは、知る人ぞ知る双璧で、仲裁を買って出るものがいなければ、血の雨が降ろうかと云う、凄惨さだった。
「曹仁どのが未だ一軍を曹公より任されず、序列を惇将軍や淵将軍の下に置かれているのは、とどのつまり、将兵を手足の如く動かす大局を見る目に欠けているからである」
「口からでまかせで役にも立たぬ軍師風情が!」
「後先を考えない短絡が、他に遅れをとる理由だと知りなさい」
「黙って聞いていれば図にのりやがって…」
「せっかくの忠告を、無にするとは愚かなり」
 あわや。
 一触即発。
 掴み合いの喧嘩になるところを、そこはこのふたりと付き合いの長い夏侯淵が、あいだに割って入る。
「子孝、落ち着け」
「見逃してくれ。
 今日と云う今日は、示しをつけてやるぞ」
 酒が入り、気の大きくなっている郭嘉と曹仁は、夏侯淵の気遣いなどどこ吹く風で、遠巻きに事態を見守っている荀ケや荀攸、我関せずを決め込んでいる賈文和や、負けそうになったら郭嘉に味方をしてやろうと事態の推移を楽しんでいる徐晃などお構いなしに、互いの隙を虎視眈々と窺っている。
「その性根の曲がりようは、痛い目を見なければ治らんらしいな!」
「すぐに頭に血ののぼる単純さでは、勝てる戦も勝てないでしょうな」
「堪忍ならん!」
 曹仁の振り上げた右の拳が、狙い過たず、郭嘉の顔面を捉えようとした、その時。
 一陣の風が吹いたかと、見えた。
「そこまで!」
 肉のぶつかり合う音がして、曹仁の鉄拳を、左の手のひらで遮った張遼が、それでも反り返るようにして実に偉そうに突っ立っている郭嘉を右腕で庇いながら、云った。
「…楽進どの」
 固唾を呑みつつ、手を拱いていた荀攸が、わずかに安堵の表情で、とりあえずはこの場を丸く収めることが出来そうな人物をつれてきた楽進に、感謝の眼差しを向けた。
 当の楽進は、いつもの無表情を崩しはしなかったが…
「郭嘉…どのにはあとでよくよく云って聞かせるので、曹仁どの、この場はこれにて」
「張遼!
 余計なことを……」
「これ以上あんたが口を利くと、収拾がつかんのでな」
「……!!!」
 じたばたと暴れる郭嘉を、手荷物のように担ぎ上げると、現れた時と同様に、張遼は一同が呆気に取られているあいだに風のように姿を消してしまった。
「子孝もそろそろ寝たほうがよくないか?」
 肩をすくめて、夏侯淵は、云った。



「降ろせ、離せ、本当のことを云って何が悪い」
「本当のことだから、云って悪いこともあるぞ」
 手足をばたつかせていた郭嘉が、一瞬、静まり返り…張遼の肩の上で、ぽつり…呟いた。
「…あんたのほうが毒舌じゃないか?」
「なぁ、郭嘉…どの」
「奉孝でいいといつも…!!?」
「…奉孝。
 ヒトサマよりおつむの回転が速いなら、な。
 だれかれかまわず人を傷つけるようなことは云ってはいかんぞ」
 どこをどう歩いたものか、いつしか郭嘉と張遼は、宴の張られた広間からは遠く離れた、別の棟のさらにそこからも切り離された厩舎にたどり着いた。
 厩舎の前は、馬の手入れが出来る広場になっていて、馬に飲ませるための水を蓄えた、子供が四五人泳げるくらいに大きな木枠の四角い桶の中で月影が揺らめいている。
「家まで送ろうか」
「断る」
「そんなに酔っ払っているくせに、家にも帰らずに、どうするつもりだ?」
「飲みなおしに行く」
「だいぶ出来上がっているように見えるんだがね?」
「余計な世話だ」
「たまには大人しくヒトの云うことも聞いたほうがいいと思うが…」
「生まれついての天邪鬼だ」
「仕方ないなぁ」
 まるで駄々っ子の郭嘉に、張遼はため息をついて、言葉を繋いだ。
「…ならば……とっておきのいいものを飲ませてやろう」
 せぇの…
 口の中で、張遼が、軽く掛け声をかけた次の瞬間…
 派手な水音と飛沫をたてて、郭嘉は水桶の中に放り込まれた。
「!!!」



 しばし呆然。
 わが身に何が起こったか、水浸しの郭嘉は、理解しかねた。
「頭が冷えたか?」
「……あんた…いつか必ず殺してやるからな」
「口で云っても聞かないヤツには、これくらいの荒療治が必要だろう?」
「あんたのやることはいつだって無茶苦茶だ」
「褒め言葉に受け取っておこう」



 さっぱり反省の色を見せない郭嘉を水桶から助け出し、少し待っていろ…と、その場に取り残して、馬房に入れた鹿毛の愛馬を引き出して来た張遼は、自分の前に郭嘉を乗せて、どこを目指すとも云わず、馬腹を蹴った。



 走れども、夜明けは見えず……



 酒が回って気分が悪いのか、それとも馬に酔って気持ちが悪いのか。
 夢と現の境目の中で、郭嘉は幻を見ていた。
 それは…大河だ。
 ひとの命と云う運命を載せて、滔々と流れ来たり流れ去る、彼岸さえもはるかな河に、独り、漂う…幻だった。
 ともに流れゆくもの無くして…
 生きるとは…なんと切ないことだろう…
 流れに抗うも一生。
 流れに溺れるも一生。
 流れに呑まれるも一生。
 いかように生きたとしても。
 ひとはみな宿命の河を、流れて熄まず…
 生きた証を、流れゆく大河の水面に、刻むことは何びとにも出来はしない。
 一切は、空。
 すべては無より生まれて、無に還る。



「どこまで行くんだ!?」
 耳許で、風を切る音を聞きながら、郭嘉は、問う。
「この世の果て」
「酔っ払っているのは、あんたのほうだ!!」
「いまごろ気付いたのか?」
 後ろから、肩先に頤を載せられて……
「…はぅ…っ」



 流れつくさきなど、知らず。



 いまはただ……
 心のままに、身をゆだね……
 どこまでも……



 翔ぶが、如く。





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年11月14日 20:58)
文責:市川春猫