『この広い空の下』




 雪ガ、降ル。
 ワタシノ胸ニ。
 降リシキル……



 深々と降り積もった雪が、都を白く包み込んでいた。
 大路小路、横丁から、路地裏に積もった雪を、大人や子ども、手のすいているものが総出で掻き払う風景が、見られた。
 曹操の屋敷のここかしこでも、下働きのものたちが、屋根の雪降ろしなどに追われていた。
「ご苦労さ……惇将軍!?」
 今朝がた、早い時刻に出仕して、宮城でのその日の懸案を片付けてしまった荀ケが、この屋敷を訪ったのは、彼を『師父』と呼んで敬愛している曹丕と、ある約束が出来ていたからであった。
 雪蓑に、藁沓、菅笠の下は、ご丁寧にも頬被り…と云う、一点非の打ち所のない重装備で、庭園に続く石畳に積もった雪を左右に掻きわけていた男に声をかけ、振り返り、荀ケを笠越しに見おろした隻眼に、荀ケは、驚いた。
「……惇将軍が……雪かき…ですか?」
「孟徳に呼ばれて来たんだが、肝心のヤツはいま来客中とかで、話にならん。
 ぼーっとしてるのも退屈なんでな。
 こうしているっちゅーワケだ」
 ……短いとは云えない石畳の径のほぼあらかたを、箒の目も几帳面に、人が楽に歩けるように整えてしまった夏侯惇を、一言には云い表せない思いを込めて、見あげると、前歯の一本足りない口許をほころばせて、満面の笑みを、見せた。
 眠っていないときは、いつも…体を動かしていなくては、気のすまないひとだ……
 訊けば、響くように、答えが返る。
 ―――余計なことを考えなくてすむからな。
「お一人で、こんなに綺麗になさったのですか?」
「いや、張遼にも付き合ってもらってな、さっきまで一緒にいたんだが、奉孝の姿を見かけたと思ったら、張遼もいなくなりおった」
「郭嘉どのはもうお見えでしたか」
「ん?
 お前たち、何を企んでおるのだ?」
「たいしたことではありません。
 …実は」
 説明しかけ、片手に箒を持ったまま、背筋を伸ばし、あいた手で腰をさする夏侯惇に、荀ケは、云った。
「かなりお疲れのようですが…
 疲れは明日に……」
 云いさしたところで、庭園を四角く囲む塀を半円に刳り貫いて出入り口とした門から、十数人はいようかと云う子どもたちが、顔をのぞかせ、口々に、荀ケを呼び囃した。
「せんせー!
 荀ケせんせ!」
 あいっ!
 …と、子どもたちに手を振り返し、荀ケは途切れた科白を続けた。
「残さないで下さいね」
「…年寄り扱いするな!」
 怒ったような、照れたような、拗ねたような、それとも…恥らったような……くすぐったいような……見るものが、思わず微笑せずにはいられない、どこか、少年の清々しさのある表情で、夏侯惇は、その表情を見られまいと、あさっての方角を、向いた。
「はやくーー!」
「はやくややく!」
 曹丕に、曹植の顔も見える…
 まだよく舌の回らない女の子までが、手に手に雪玉を持って、荀ケが来るのを待ち構えていた。



 さて。
 荀ケよりも早く庭園に到着していたはずの郭嘉がどこに居たかといえば。
「そんなに目をこするな。
 傷が付く」
 石畳の径からは死角になる、庭園の築地が直角に切れ込んだ、南に面していて、積もった雪の深さはほかに比べて半分ほどしかない、日当たりのいい場所だった。
「目に何か入ってる…こすっても、取れない」
「涙を流せば自然と取れるだろうが…
 …泣かせてみようか?」
「莫迦を云うな」
 右手の甲で目をこする郭嘉の、その手首をそっと押さえて、張遼は、その大柄な体を覆い被せるようにして、郭嘉の眸を、覗き込んだ。
「……あんたの中に、空が見える」
「…ちょ…う」
「そうやって…
 瞬きもせずに、俺を睨みつけていろ」
「睨んでなどいない」
「…そう云えば、それが…素だったかね?」
 吐息が…至近距離。
 刹那に、目の前が暗くなり、何か…
 間違いなく、眼球に、柔らかなものが触れ、すぐに、視界は明るさを取り戻した。
「甘露…だな」
 舌の尖を、左の小指の先で撫でると、張遼は、いつもの自分の手の内は何一つ見せないのに、相手の切り札は承知してしまったような、どうにも底知れない笑い方をした。
 笑顔の向こうに、いったい…
 なにを包み隠しているのか。
 どれほど透き通っていたとしても、いずれ光が届かなければ、暗黒の闇となってしまう深淵の水のように…
 目に見えぬ速さで対流していながら、その水面には漣ひとつたてはしない男の勁烈を、郭嘉は孤独と同じほどの寂寥と見ていた。
 ひとは、だれも…
 他者に訴えることの叶わぬ寂しさを心に隠して生きることは、できない。
 虚ろを実と偽って……
 笑うほどの勁さを……
 多くのひとは、持ち得ない。



 悲しみの悲しみは、悲しみの存在を知ってしまった悲しみの、悲しみ。



「空の味がする」
 それは、愛撫か。
「…!」
 なにを答えたものか、郭嘉が返答に窮したとき…
「かくかせんせい、み〜つけたっ!」
「せんせー、ちょうりょーしょうぐんと、かくれんぼ?」
 女の子は、母親に似て愛くるしく…男の子は、よくぞここまで父親に似たものと、感嘆するほどに、父の面差しを継いで、凛々しい。
「もう、みんな、まってるの。
 ゆきがっせん、しましょ」
 郭嘉の、つめたく冷えた手を握り締めて、何番目の娘になるのか、節と呼ばれるあどけなくも利発そうな童女が、せがむ。
「雪合戦?」
「ああ…このあいだ、雪が積もったら、みんなで雪合戦をしようと、約束したのだ」
 子桓どのと子建どのを大将に…
「荀ケどのと俺が軍師で、派手に、な」
「それは見モノだ。
 後学のために、ぜひ拝見しよう」
 節を空に向かって抛り投げるようにして、肩先に載せると、節は両手をたたいて、はじけるように、はしゃいだ。



 この広い空の下。



 もう、どこにも居ないひとのことを思えば。
 そのひとが占めていた心のどこかがいまは虚ろとなっていて、とても寂しいけれど。
 変わらぬ日常は、感傷に濡れた過去を記憶の彼方に流し去る。



「来ましたね!」
 準備万端整えて、戦力が偏らないように、荀ケが差配して二手にわかれた子どもたちが、飛び跳ねながら、ふざけあっている。
「わたしは子桓どのに加担します」
「…では俺は南側の陣地をもらおう」
「大将の力の差を、地の利で補う作戦ですか」
「太陽を背にすれば、眩しさは半減する」
 張遼は、黙って薄く、笑っている。
 箒を持ったまま、勝負事なら立会人が必要だろう…と、雪合戦を見物に来た夏侯惇が、雪玉を二人に投げつけた。
「さっさと始めんか」



 この広い空の下。
 変わらぬ日常。
 すべて…
 この世はこともなし。






That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年12月 1日 22:34)
文責:市川春猫