『夢の見た夢』




 浅い眠りのなかで、夢を見た。



 軍議のない日のこの男を捜そうとすれば、まずは花街に向かうのが、いちばんの早道だった。
 矯激で、激越な言辞を弄し、多種多彩な異能を持ったほかの文官や将官たちを向こうに回して一歩も退くことなく筋を通し、時には自らが仕える主君さえをも煽動する機略を縦横に廻らせる生粋の軍師と、放蕩無頼に紅灯の巷を我が物顔に闊歩し、あちらで刃傷沙汰、こちらで痴情のもつれの修羅場を演じる遊興児とは、この男を知らぬものならひとつに重なる像を思い描くことさえ困難なことだった。
 日の高いうちの歓楽街は、どこか白々と裏寂れた侘しさが、ある。
 夜の虚飾を剥ぎ取られ、あるがままに、何もかもが抛り出された投げやりさで、素っ気無く閑散とした静けさに、街は沈んでいた。
 野良猫とおなじで、気が向けばどこにでも潜り込み、わずかな隙間に入り込んでは姿をかき消してしまい、現れたときは罵詈と雑言の二重唱で、その場を混乱と混沌の坩堝と化す…人の形をした災厄の名を…郭嘉、と云う。
 曖昧宿、あるいは連れ込み宿。
 どう呼ばれたところで、そこは、ひとときの快楽のために空間を切り売りにする場所で、夜ならば安普請の薄い壁を通して、隣の部屋の嬌声が筒抜けに聞こえる最下級の魔窟である。
 昼なお暗く、閉ざされていて、いまは…物音ひとつせずに、この建物自体が、沈黙している。
 安らかに、規則正しい寝息が深くゆったりと続いていた……



「寝ているときだけは、可愛い顔をしている」



 探しあぐねて、ようやくに。
 やっと見つけてみれば、捜しびとは太平楽に惰眠をむさぼっている。
 安心しきって、わずかばかり、微笑さえ浮かべながら、その寝顔は、とても幸せそうだった。
「場末の淫売宿で昼寝をする軍師なんてのは、この世に郭嘉どのよりほかないでしょうな」
 蛇の道はヘビと云いながら、得物を追う猟犬の嗅覚の鋭さで、お目当てを探し出すこの男の目端の利きようも、いっそ見事なものだった。
「軍師どの…」
 窓に打ち付けられた薄い板の隙間から、白い光が幾筋か斜めに差し込んでくる。
「…なんとも」
 躰を丸めるように右の半身をしたにして、眠る郭嘉の横顔に、光は縞模様となってかすかな呼吸の上下に合わせて、揺らいだ。
「おなごのように…ながい睫毛だな」
 綺麗なものなら、触れてみたくなる。
 閉じてさえ、涼やかな目許を縁取る濃い翳を、真四角にちかいほど、いかつい形のつめを持ったゆびさきが、ありなしの力でなぞりあげる。



「……ん」



 躰の、ありとあらゆる場所の中で、眼瞼は、敏感な部分のひとつだろう…
 煩わしげに、とつおいつするゆびさきを、払いのける。
「うるさ……
 ……ちょ……ぅ……
 ……!!!?」
 不意に、眸を瞠いて、郭嘉は、寝台のうえに、跳ね起きた。
「徐晃どの!
 な、ん、で、あなたがここに!?」
「真ッ昼間にバケモノにでも遭ったみたいな顔をしないで欲しいものですなぁ」
 何がどう生えたらこうなるのかわからない、猫のようなヒゲを二度三度、無意味にひねりながら徐晃は笑う。
「あなたには縁のない場所のはずですぞ」
 あわてながらも、威儀を正し、いつもの癖の反り返り気味に背筋を伸ばした姿勢で問いかける。
「それでこちらもずいぶん苦労した」
「わたしに何の御用です」
「殿の退屈しのぎですわ」
「…なんと?」
「人材登用の面接に飽きた殿がですな、たまたま居合わせた我々にクジを引かせて…三刻以内に当たったものを持ってこれたら褒美をやろうと云うことになってですな…わしの引いたクジは、郭嘉どのだったのですわ」
 我々…と云うことは…ほかに誰がいたのだろうか……郭嘉には、その場の面子の困惑の表情が、ありありと脳裏に浮かんだ……
「わしなんぞはまだいいほうで」
「いいほう?」
「張遼どのは関羽の髯だそうだ」
「………」
 蒼天の覇者ともあろう人物がこどもの戯れ事のような遊興に真剣になる……
 そこが…憎めなくも…恐ろしい……あのお方の本質なのだろう……
「で、徐晃どの。
 わたしを殿のもとに連れて行かれるか?
 褒美を折半と云うなら、考えてもよいのですが?」
「…さすが軍師どの。
 抜け目はありませんな」
 物珍しそうにあたりを見回していた徐晃が、申し出に素直に肯いた。



 日は西に傾き始めたばかりで、往来を行き交う人の影は、未だ短い。
「ところで、軍師どの」
 轡を並べて曹操の屋敷へと向かうふたりは、のどかに世間話をしていた。
「なにか?」
「張氏か趙氏かは知らんが、よほどにいい女なのだろうな」
「……?」
「はんぶん寝惚けて、名を呼んでいたではないですか」
「…………」
 言い訳は…声にもならず……ましてや言葉になるはずもなく。
 まさかに。
 払いのけようとして触れたゆびさきが…膚で知っている形と違って驚いて目が醒めた……などと。
 誰が、云えよう。
「将軍にも、いい女のひとりやふたり、心当たりがおありではありませんかな」
 何気なく、振り仰いだ、となりを歩く馬に揺られた徐晃が、ほろ苦く笑ったのを、見てはいけないものを見たような気がして、郭嘉はあわててまっすぐ前に視線を戻した。
「女に惚れても、惚れられることがないんですわ」
「……」
「たったいちど、何の約束もしてやれなかったのに、嫁に来ると云った女がいましてな」
 遠い記憶を手繰るように、徐晃は、続ける。
「愚図愚図しているあいだに、横から攫われて、それっきりですわ」
 目を伏せると、頬に睫毛の翳が落ちるほど、涼しい瞳の女だった…
「まァ。
 昔の話ですがな」
 ――ありえる筈のなかった運命の岐れ路の…夢でしかないもうひとつの現実で…幸せだったかもしれない御伽噺の結末を……
「諦められないんですわ」



 時には、考えるよりも早く言葉が舌のうえに躍る男にも……ひとことの言葉さえも禁じてしまう、物語がある。



 さて。
 問題の、曹操の褒美…である。
 曹操は、気前よく、こう云った。



「俺の側室を下賜するぞ」



 ……ふたり仲良くはんぶんこにするわけにはいかないので……郭嘉と徐晃は顔を見合わせ肯きあうと、言下に『お言葉ありがたく』…鄭重に謝絶したので、あった。



 そのころ。
 張遼がどこで何をしていたかは、誰も知らない。





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年11月16日 21:22)
文責:市川春猫