『焦がれる唇』




 今宵の、君は。



「挨拶くらいしてよね!」
 と、一喝を食らい、ぼんやりと口許に羹(あつもの)を運ぼうとしていた男が、不意に現実に引き戻された。
「こりゃっ!
 アマっ子、誰に向かってモノを云ってる!」
「なによぅ!料理長だからって、偉そうにしないでよ。
 ご飯食べるときは、挨拶くらい当たり前でしょ!」
 騎馬隊の、軍事調練のあと、小腹の空いた張遼は、厨房の裏方にふらりと顔を出して、まかない料理にありついた。
 こざっぱりと清潔な身なりで、髪を藍色の頭巾に包んだ下働きの娘が、何気なく食事を始めようとした張遼に、最低限の礼儀を要求したのは、娘の主張するとおり、当然のことと云えた。
 どんな些細であっても、誤りを認めるのに率直なのは、誰もが認めるこの男の美点で、非を糾したものがどれほど卑しい目下の身分であろうと、素直に謝罪の言葉を口にするのが、流儀だった。
「…すまなかったな。
 せっかく用意してもらったのに。
 ……いただきます」
 どこか…曖然と霞むように、男の微笑は不可解に謎めいている……
「あっちの小鍋の中身は何なんだ?」
 思いもよらぬ温順な対応に、娘は毛を逆撫でされた猫のような態度を改める間もなく、問いに、答えた。
「軍師さまに何か栄養のあるものを、って…
 薬師の先生の、指示があって……」



 曹操麾下に、軍師と名のつくものは数あれど。
 おそらくは、自分の頭の中身に夢中になって、丸一日も食事をしないでそれに気がつかないのは…ただひとり。
 ひとたび、軍略が脳中に朧な形となって舞い降りてきたならば、三日三晩だろうと寝食を忘れてそれを突き詰めずにはいられない、妄執に近いほどの情熱と狂熱は、何に拠ってきたるものなのだろう。
 娘が運ぶと云った、五分炊きにした粥を、盆に載せて、いつもは文官たちの供回りのものが控えの間に使っている小部屋に、張遼は足を向けた。



「郭嘉…どの」
 殺風景な、何の飾りもない部屋の片隅に置かれた長椅子に横になり、薄絹をかけられて、拗ねた子どもの顔で、郭嘉は…上目に張遼を眺めやった。
 ……先客がいる。
「来たな。
 郭嘉のこととなると、おまえは耳が早い」
「…偶然です」
 いつも何かに驚いたような、好奇心が光となって眸に宿る、曹操のまなざしが、鋭いほどの直截さで張遼に注がれる。
「そう云うことに、しておくか」
 何もかもを、お見通し。
「郭嘉よ、張遼は俺と違って生真面目だぞ。
 こってり油を絞られるから、覚悟しておくといい」
「殿!?」
 郭嘉の前に、背もたれのない丸椅子に座って陣取っていた曹操が、立ち上がり、張遼の傍らを通りすがりざま、その二の腕をゆびさきで軽く弾いて、部屋を出て行った。



 沈黙が、その場を支配している。
 饒舌…と云うほどではないが…むしろ、口数の多さでは郭嘉のほうがはるかに上をゆくお喋りだけれども…相対した人を気詰まりにさせないだけの気遣いと話術は心得ている男が、いつまでも口火を切らないのは、どことなく、薄気味悪い雰囲気が、あった。
 重苦しさに耐えかねて…
「…何か、云ったらどうなのだ」
「云ってほしいのか?
 腹を空かせて目眩をおこして、あげくに後ろに倒れるような、自分の腹具合も量りかねるような軍師どのに、何を云ったらいいだろうかね?」
「好き放題、云ってくれるではないか」
「飯くらい、誰かが面倒をみなくても、ちゃんと、食え」
「誰もみてくれなんて頼んだ覚えはないぞ」
「…可愛げのない」
「愛嬌のない性格は生まれつきだ」
 じぃ…っと。
 きつく吊った眸をむけて、心持ち、唇を尖らせて、郭嘉が反論しようとした、そのとき。
「そーゆうトコロに惚れられてるんじゃないのか?」
 !!!
「とのっ!?」
 思わず長椅子から跳ね起きた郭嘉に、曹操はさも愉快そうな茶目っ気たっぷりの笑顔を見せた。
 忘れ物をとりに来た。
 などと、見え透いたことを云いながら、曹操は丸椅子のそばの卓子に放り出されたままだった竹簡を持って、現れたときと同様、風のように去ってゆく。
 主君を見送って、郭嘉はため息をついた。
「もしかして!?」
「ん?」
「あんたが黙っていたのは、曹公が戻ってこられると先読みして…」
「いや…殿は最初から、戸口の陰にお立ちになられていた」
「……なんという物好きな……」



 ――曹公とは、なにを話していた…?
「約めて云うなら、理想…かな」
 子ども扱いするな…
 張遼が、冷めかけの粥を匙ですくって、口許に運ぶと、郭嘉はどうしてもまとまりのつかなかった、頬にかかる前髪をはらって、明後日の方向を向いた。
「食べないのか?
 匙で食べたくないなら…いっそ」



 くちうつしに、しようかね?



 唇とは、言葉をつむぐがゆえに、尊い。
 けれど。
 口は?
 そこは…窺い知ることも叶わぬ闇の深遠に、繋がっている……
 呑み込んで…なにもかも。
 いつもなにかに焦がれてる…
 君に告げる。



「心配で、目が離せない」
「面倒見のいいことだ」
「人間なにがしかの取り柄ってものがあるからな」
「そうやって、だれにでもいい顔をするのであろう?」
「あんたに、いちばん、いい顔をするさ」
「………」
「不足かね?」
 とらえどころのない笑顔に、つい、絆される…
「ほら、あったかいうちに」



 なにもかも、思い通りになんてできない世の中。
 せめて。
 理想くらいは高い処にあってもいいんじゃないか?
 手を伸ばせば届くところにあるものに…
 どれほどの価値がある?



「なんだって、俺にそんなに親切なんだ?」
「性分だろうな。
 自分で自分の面倒も見切れないようなやつが、つい、抛っておけないんだよ」
「余裕があって、いいことだ」
「無くたってある振りをするのが、男ってモノだ」



 今宵は月も、出ぬそうな……
 だから。
 暮れゆく部屋の片隅で。
 君に告げる。
 この切なさを。
 分かち合ってはくれないものか…と。
 





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年11月22日 16:52)
文責:市川春猫