『最果ての河』




 死にゆくよりほか、道なき者よ……



 袁紹の擁する45万の大軍と、官渡で対峙した曹操軍は、一見、膠着状態の睨み合いとなり、両者はすべての動きを止めて、真空の、静寂のなかに固唾を呑んで息を潜めていた。
 忙中閑ありとは、よく云ったもので、将軍は兵卒に…軍師は書記官に降格を申し渡されてから、郭嘉には、あちらこちらの部曲を見て廻る余暇が出来た。
 最下層の、名もなく、そも人として扱われることもなく、容易に補充の可能な消耗品として、軍の組織に最大多数を占めながら、切り捨てられてゆく者たちの中にあって、曹操の深慮遠謀なのかまったくの気まぐれなのか、思わぬところで落魄の憂き目に遭った将軍たちはそれぞれの個性を与えられた場所で遺憾なく発揮していて、郭嘉の目には、興味深く、映った。
 十把ひとからげの大所帯に、溶け込むと云うより、もはや馴染みきって、どこにいるのかいちばん身近に接しているはずの荀攸でさえよくよく注目しなければ見つけられないのは楽進で、身の回りの環境になど頓着しない徐晃は兵卒に慕われて上機嫌であったし、いつも物静かな夏侯淵は必要最低限の義務だけを果たし、将軍であることにかたくなに執着し、将軍としての態度を崩さずあたりかまわず八つ当たりをしていたのは曹仁だった。
「わりと…面子にこだわる男なんだな」
 曹操の処遇に、一言の不満も口にしたわけではないが、誰の目にも見慣れた重厚な甲冑に身を包んだまま、敵勢との小競り合いにすら、かえって攻防の妨げとなるであろういでたちで、張遼は従軍するのをやめなかった。
 感情が、鬱積している。
 夏侯惇将軍ですら量りかねる曹操の真意を、忖度するほどの余裕が、この男に、あるか。
「その冑のありなしで、あんたの価値が決まるわけでもないだろうに」
 ひとは…形に心を添わせる。
 不確かな、自分の眼で見たものを、真実と、思い込む。
「雑兵どもとは、格が違うと、その格好は示威のつもりか?」
「俺は、いつでも俺でありたいと思うだけだよ」
 おのれの武に絶対の信をおく、意地っ張りな男の返答は、郭嘉を満足させなかった。
「俺の知っている張遼と、あんた自身とは、同じものではないのか?」
「あまり難しいことを云われても、困る」
 いまは同僚となった兵卒たちに懐かれて、夏侯惇の傍らには、信仰にちかいほどの熱心さで彼を頼りにするものが、寄り集まっていた。
 それに引き比べて、張遼の身の回りは、閑散としている。
 誰もが張遼の無言の威圧感に怯えて、張遼と親しむのを、敬遠していた。
 城壁のうえに、敵襲を監視する歩兵が行き来しているだけで、曹操軍は午後の日差しに、まどろむかに寂として、沈黙していた。
 張遼の所属する部曲の幕舎は、張遼に遠慮して、人気がまったくなかった。
「書記官などに降ろされて、もっと落ち込んでいるかと思ったが…
 あんたはさっぱり堪えていないようだな」
「曹操どのの思い付きを、いちいち真面目に気に病んでいたら、あの方の軍師など務まらぬ」
 昼でもなお、光を通さない厚手の布地で骨組みを覆った幕舎のなかは、薄暗い。
「長い付き合いと云うわけだな」
「死ぬまでの付き合いだろうな」
「俺とあんたは、どんな付き合いだろうか」
「裸の付き合い…
 でないことだけは、確かだ」
「…やっぱりあんたは、冗談が、下手だ」



 片隅に置かれた青龍刀に、郭嘉の視線が留まった。
「素人がむやみに触ると、危ないぞ」
 近寄って、無造作に柄をつかんだ郭嘉に、敷物の上で怠惰に足を投げ出し座っていた張遼が、云った。
「多少の心得くらいは、ある」
「10回…いや…5回がせいぜいかな。
 そいつを5回、型どおりに素振りが出来たら、晩飯に旨いものでもおごろうか」
「二言はないな!?」
 冷静沈着を装い、心の動きを表に出すことは慎むべき軍師の役割を負っているはずの郭嘉は、すぐに思っていることが顔に出る。
「ついて来い!」
 張遼の眼には、細腕、としか見えぬ腕に自身の背丈よりも長大な青龍刀を掻い込み、出入り口の帳を跳ね上げて、郭嘉は後ろに反り返りながら、意気揚々と外に出てゆく。
「提膝纏頭、弓歩平斬、仆歩帯刀、歇歩安刀、馬歩平劈……このあたりの型を一連として、見せてもらおうか」
「………???」
 郭嘉の、郭嘉を特徴づけている、きつく吊った眸を、瞬きもせず瞠いて、威勢よく啖呵を切った手前、それはなんですかとも訊けず…
「…手本を見せようか?」
 郭嘉から、愛用の、おのが命を預ける青龍刀を受け取って、張遼は、どれほどの修練の挙句に身につけた神業か…鴻毛の軽さに得物をひと振りすると、流麗な身のこなしで、模範を示した。
「か…か…かあっこええ…」
 どうにも緊張感のない声に、郭嘉が振り返ると、いつのまにか、やはり顔にも緊張感のない坊主頭の男と、夏侯惇が立っていた。
「俺も練習したらあんなふうになれるやろか」
「無理だな」
 間髪いれず、返事する夏侯惇に、坊主頭は見るも痛ましいほどがっくり肩を落とす。
「資質に恵まれた上に、それを生かすだけの覚悟がいるのだ。
 生半なことでは、絶人と云われるほどの境地には達せんよ」
「惇将軍!」
 中背の郭嘉が、大柄な夏侯惇に話しかけようとすれば、かなり反身に相手を見上げなければならなかったが、郭嘉は、いくぶん唇をとがらせ気味に、云った。
「試してみなくては、判りますまい」
「…郭嘉よ」
「は…」
「おまえがおまえであるために、心の支えとなるものは、なんだ」
「……」
 夏侯惇は、坊主頭を促して、配給の米の入った桶を天秤棒で肩に担いで、瓢然と去っていった。
 ……訓練ならば、誰にでも、出来る。
 ……修練となれば、それは…何よりもまず、自分自身との戦いで…打ち克つことが最も難しいのは、自己のなかの密かなる敵なのだ……
 果てのない河を、流れに棹をさして遡ってゆくかの、徒労であっても。
 おのが心の目指す境地に向かって。
 たゆまぬ努力をし続けた日々に、いつも…
「5回、だったな」
 青龍刀と、その身を固めた甲冑があったのだろう。
「怪我をするなよ」
「いちど口にしたことは、やり遂げる」
 ……意地っぱりなところが……可愛げに映ると云えば、張遼の美意識はどうかしているのではないかと、程cあたりが揶揄しそうだが…どうにも……くるくるとよく移り変わる表情の豊かさに、眼を奪われる。
「郭嘉…どの」
「奉孝でいいといつも云っている!」
 おそらくは、郭嘉の体重の三分の一はある青龍刀を一度二度なら振り上げることもできるだろうが、張った意地のために腰つきも怪しくよろめいている郭嘉を張遼は静止する潮時をどのあたりにしようかと、思案する。
「あんたが賭けに勝てば、旨い晩飯だが…俺が勝ったらあんた、どうする?」
「ありえない!」
「肩で息をしているが…大丈夫か?」
「あんたはひとつ、失策を犯している」
「…それは?」
「じ…時間に制限をつけなかったことだ!」
「…勝手なことばかり言って」
 3回目の歇歩安刀をしおおせたところで、完全に息の上がった郭嘉は、次の挙措に移ろうと青龍刀を頭上に振り上げたところで、固まってしまった。
「どうした?」
「……腰が……」
「無茶をするからだ。
 負けを素直に認めるなら、助けてやるぞ」
「だ…誰が…」
 郭嘉を見おろしながら、どうしてなかなか、見あげた根性だと、張遼はいつものどこか、本心が曖昧な笑い方で、笑った。
 四回……五回……
「お、俺…俺の…勝ちだ…」
「ただ振り回しただけだろう」
「こっちは素人だ。
 多少割引きしてくれてもバチは当らん」
「勝手なことばかり言って」
 呆れはしたが、こういう身勝手は、嫌いではない。
「で!」
 元気に動くのは、多分、舌先だけなのだろう。
「どんな旨いものを御馳走してくれるのだ?」
 青龍刀を放り出し、張遼に詰め寄ろうとした郭嘉は、右手と右足を一緒に出して、前に進もうとして、そのまま前につんのめった。
「あんた、明日は身動きできないぞ」
 片手に郭嘉。
 片手に愛刀。
 悔しいほどに軽々と抱えられて、親猫に運ばれる子猫のように郭嘉は自分の宿舎に送り届けられた。



 次の日。
 郭嘉が全身筋肉痛で張遼の予言どおり身動きも出来なかったのは云うまでもないが…
 どのような『旨いもの』が郭嘉の口に入ったものか、それは定かではない。





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年11月13日 14:07)
文責:市川春猫