『朝日のように、さわやかに』




 朝日のように、さわやかに……



 夏が逝き、秋の日が闌けて、官渡に吹く風は晩秋の冷涼を感じさせるものとなっていた。
「許都の荀ケ先生から、枝豆の差し入れだよぉ」
 宵っ張りの朝寝坊…戦陣の、今まさに危急存亡のときであっても、どうにも朝に弱い郭嘉が、珍しく、早朝に目を醒まし、どこへ向かうともなく散策をしていると、許楮が大鍋にあふれるほどに枝豆を満たして、何事かと幕舎から姿を現した士卒たちに、ひとにぎり、ふたにぎり、ほんの口汚し程度に、振舞って歩いていた。
「郭嘉先生も、食べるだかね?」
 枝豆はおろか、朝食すら、ここ数年食べたことのない郭嘉は、問いかけに、頚を横に振った。
「いい塩具合に茹で上がったから、遠慮しないで食べるといいよぉ」
 ずい…と。
 かなりの数の兵士に配ったにもかかわらず、まだ、山盛りの嵩がある枝豆を、郭嘉の目の前に差し出して、許楮は、云った。
「……遠慮しておく」
「どおしてだぁ?」
「枝豆は、キライだ」
「うまいのに」
「枝豆は、手触りが気持ち悪い」
 味がどうこう云う以前に、郭嘉には、その毛羽立って、ざらりとした触り心地が、どうにもいただけない。
「だとしたら、鞘から出したら、食べるのか?」
「……」
 地平低くに、ようやくに曙光を投げかけ始めた太陽を背に、地獄からの使者のような魁偉な黒い馬に乗った男が、いつのまにか…姿を現した。
 鞍を降り、郭嘉に近づき、許楮の手にした鍋から枝豆を摘みあげ、鞘を剥き……郭嘉の口に放り込むまで、その一連の動きは、見惚れるまでに、流麗だった。
 朝からいきなり…人の目もあればこそ、このような扱いを受けて、いつもの郭嘉なら、わずかに頬を紅くしながら、それでなくてもきつく吊った眦をさらに吊り上げて、尻尾を踏まれた子犬のように、張遼に食って掛かり、頭に『痴話』と冠の付く喧嘩を始めるのだけれど……今日に限って、郭嘉はおとなしく、口に入れられた枝豆を、咀嚼している。
 もっとも、喧嘩と思っているのは郭嘉だけかも知れず、張遼は、郭嘉の反応を面白がり、余裕を持っていなしてしまうので、傍から見ると、じゃれあいでしかないけれど…
「遼将軍、あんまり郭嘉先生を甘やかしたらダメなんだよぉ」
 自分で剥いて食べるのがイヤなだけで、手を汚さなくてすむなら、郭嘉は実は、枝豆が嫌いではない。
 親鳥に餌をもらう雛のように、ひとつぶ、ふたつぶ…翡翠の珠にも似た枝豆を、口に哺ませてもらう郭嘉に、許楮はなかば呆れている。
「あ〜、いいところにいなさった」
 曹操の起居する本陣からは少し離れた場所。
 一般の歩兵が各部曲ごとにまとめられ、雑居している兵舎からも少し離れた、ほんのささやかな広場に、三人と、張遼の愛馬は、居た。
 秋の、澄み切った空気のなかで見る早朝の日輪は、燦爛と光を放射しているかに、輝いている。
 そう云えば…この日をささげ持つ夢を見た男が居たな……
 逆光となり、眩しさゆえに、翳は際立ち…絶妙の間合いで緑色の粒を口に入れてくれる男の表情は、これほどの間近くにいても、窺い知ることができない……
「大変なのでござるよ。
 ……か」
「賈クどのと程cどのが諍いでも始めたのですかな」
「なぜそれが」
 実際に会ってみれば、どうしてこの男がかつて曹操を絶体絶命の窮地に追い込むことができたのか…と、不思議に思うほどに、張繍は…人のよい田舎の猪武者にしか、見えない。
 どこか間延びして、隙が多いように見えて、どうしてなかなか、一筋縄ではいかないしたたかさを、張繍は、生得のものとして、持っている。
 温和で篤実で、礼儀をわきまえ、他の意見に耳を傾ける大器と目される張遼も、煮ても焼いても喰えない茫洋とした得体の知れなさがある点で…張繍と、一脈通じた気質があると…郭嘉はおぼろげに、感じていた。
「この間から、小さな衝突は続いていた…そろそろ、程cどのが癇癪を起こしても不思議はない頃合ではある。
 簡単な推量だ」
「手が付けられないほどに…二人で陰険な言葉の応酬をしておる……」
「張繍どのは、もとをただせば賈クどのの主君ではありませぬか。
 たまにはびしっと賈クどのを叱責してもよろしいのではないですかな」
「…ま……まぁ…ではあるが…」
「張遼」
「なにかね?」
「夜を徹しての斥候の成果を曹公に報告するのであろう?
 俺も一緒に行く」
「…なんでもよくお見通しだな。
 さすが…一を聞けば十を知る俊才。
 森羅万象、知らぬことはないと云われる軍師どのだ」
「褒めても何もでないぞ」
 うたかたの…
 幻のように。
 白銀の髪が、日の光を透かして、灼熱の赤に…染まって、見えた。
 瞬きをすれば…網膜のうえに結ばれた、その、錯覚に近い残像が、跡形もなく消え去ってしまいそうで……郭嘉は、眸を瞠いて、瞶めてしまう。
「でも、知らないことだってあるんだよぉ」
 我に返った郭嘉が、云い返す。
「何を云うか。
 四書五経のこと如くを諳んじ…」
「殿だって知ってるよ」
「孫子の兵法の要諦を会得…」
「賈クも同じコトを豪語してましたな」
「……」
 唇をかみ締めて、次の科白に詰まってしまった郭嘉に、ああ…よしよし…と、張遼はふわりと頼りない猫っ毛の頭を撫でる。
「で、許楮どの。
 郭嘉…どのが知らないこととは、いったいどのようなことなのですかな」
「郭嘉先生は、枝豆が熟す前の大豆だって知らなかったんだよぉ」
「それを云うな!!!」
「豆腐が大豆からできてるのも知らなかったし、数の子が鰊の卵だってのも知らなかったんだよね」
「そ、曹公の本陣に、先に行っている!」
 常識だろう……?
 と、あえて口にはしないが、微妙に生温い二人の視線が、どうにも居たたまれず、郭嘉は斬りつけるように張遼に云い置くと、振り返りもせずに、早足に、その場を立ち去ってしまった。
「恥ずかしがって、赤くなってたなぁ、郭嘉先生」
 許楮の、荀ケお墨付きの大声が、郭嘉の耳にはっきり届いた。



「可愛いなぁ、もう」



 軽やかな馬の蹄の音が、近づいてくる。
「郭嘉…どの」
「もはや云っても聞かないだろうが…付け忘れる敬称は……以下略っ!」
 漆黒の馬がすぐ真横に並んだ瞬間、郭嘉の足は地面を離れ、どれほどの膂力があるのか、張遼の腕に絡めとられた躰は鞍の前に納まっていた。
「あんたに、土産だ」
 腰の飾り帯に結び付けられていた雑嚢から、房にたわわに実をつけた山葡萄を取り出して、郭嘉の手に、握らせる。
「食欲がなくても、これなら食べられるかと思ってな」
 夜通し…
 道なき道を走り続け、馬の背から、通りすがりざまに手を伸ばし、摘み取った山葡萄…
 身を案じ、思い遣ってくれた、その温情に…酸っぱいからキライ…とは、云えなかった。
「……ん……」
 耳の下が、きゅぅ…っと痛むほどに。
 山葡萄は、酸味が強い。
 胸の奥底…心のどこかも、なぜだかとても、微かな痛みに疼いたのは、気のせいと……
「張繍どのは、たぶん、賈クどのに何もおっしゃるまいよ」
「なぜ」
「誰にでも、特別があるからさ」



 朝日のように、さわやかに。
 あなたはわたしを包み込む。 





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年11月29日 23:00)
文責:市川春猫