『軍師殿、乾杯!』




 惑いの揺らぎに、危うきものよ。



 白昼の熱気は地を払い、夕間暮れに茜色に染まった空が、遥かな高みでは瑠璃の青に色合いを様変わりさせて、ひとつ…ふたつ…数を増してゆく星が、満天に鏤められはじめた頃合いとなった。
「背筋を伸ばして、視線はもっと前に」
 ひとたびなにかを思い立ち、云い出したら、あとには退かず、納得するまで突き詰める。
「手綱はけして放さないように」
ある意味、純粋と云えるかも知れないが、それは、一面、はた迷惑…な様相を呈することも、ある。
 もっとも…
 子どもめいたわがままを、笑って寛容してしまうほどに、男は、一を問えば千を答える軍師に、甘い。
 戦の膠着は、将兵たちから緊張の弛緩を呼ぶものではなかった。
 それぞれが、それぞれの場所で、創意を凝らした、自然発生的に編み出された生き残るための方策は、試行され、実行され、さらに研ぎ澄まされ、洗練された戦術へと昇華していった。
 余人は知らず。
 戦況の如何によっては、自ら愛馬を駆って一軍を先頭に立ち指揮する曹操の軍師であってみれば、手綱を取り、主君の後塵を拝しながら追従することも稀ではなく、郭嘉の馬術も、人並み程度の技量を有していてはいた。
「郭嘉…どの。
 そろそろ切り上げないか?
 根を詰めたところで、急速な進歩はないぞ」
「…同じことを、貴公は何度云わせるつもりなのだ」
 薄暗くなりかけた、黄河のほとり。
 水鳥がところどころで大きな群れとなり、水際に、漂っていた。
 暮れ残りの日の光に、水面は熟れてはじけた柘榴の色に、煌いていた。
 調教が行き届いて、気性が穏やかでどのような乗り手にも従順な、名を駿麗と与えられた栗毛の馬をあてがわれ、曹操麾下の将帥の中でも際立った馬術を持った男に指導を受けていた軍師は、わずかばかり遅れて駒を進めている『師匠』を横目で見やり、返事をした。
「もうすぐ戦局が動き出す。
 そうなれば、こんな暇はなくなる」
「なんだ?
 馬の稽古は暇つぶしか?」
 岸辺からの、漣に乱反射する暮色を映して…郭嘉の眸に、紅く…火の粉にも似た輝きが、躍る。



 ……かがり火のようだ………



 胸を締めつけるほどの痛切で、男は、淡く微笑する。
 蒼穹に薄くたなびく春の霞を思わせる、曖昧で捉えどころのない、あえかな表情は、郭嘉にすら、その本心の片鱗さえ窺わせはしない。
 見詰められて、目を逸らすどころか逆に高飛車に郭嘉は男に食って掛かる。
「俺の顔がそんなに面白いか」
「…いや。
 あんたのその眼で睨みつけられると、背筋が寒くなるほど気持ちがいいな、と」
「……!!!」
 不本意に、声を詰まらせ、言葉を捜すときに見せる、唇を尖らせるしぐさに、年齢よりもずっと…あどけないほどの稚さが滲んで、男には、それが切ない。
「楽進どの〜〜〜っ」
 声につられ、ふたりが振り返ると、蹄が地を掻く音がして、夕闇のなか、騎馬の人影が、ふたつ、背後から迫ってくるのが、見えた。
「楽進殿と…荀攸殿だな」
 郭嘉よりも夜目の利く男が、不意に現れた人物を云い当てる。
 愛馬の速度を並足ほどに落とすと、栗毛の馬はそれに倣い、追いついた楽進も男と馬首を並べた。
「こんな時刻に、荀攸殿と遠乗りですか」
 誰に対しても、謙譲を忘れない口調で対応する男が、楽進に、問う。
「そう云うことでもなく」
 だとしたらどういうコトなのだ…生傷の絶えない一番手柄の武勲を数えるならば、他を圧倒するこの小柄な将軍の物言いは、郭嘉には不透明に過ぎて、時に、もどかしさを感じることがある。
「馬術をご教示いただいていたのです」
「…それは奇遇ですな。
 自分も郭嘉…どのに昼食のあとからずっとお付き合いを」
 ようやくに追いついた荀攸に、男は如才なく話題の流れを預ける。
「せめて足手まといにだけはならないようにと努力しているのですが、わたしにはあまり、乗馬の才能がないようでして、せっかくの教えを無にしてばかりおります」
 ――戦塵のなかを往来して、実地に身につけた技術を教えていただくのはためになりますな。
「楽進どのは教え方がお上手なので、我ながら少しは見違えるようになったと思うのですが」
 婉曲に褒められても、楽進はいつもの無表情を崩そうとはしない。
「ならば俺も楽進どのに習えばよかったかも知れぬ」
 正午を過ぎてから今まで、さんざん付き合わせていたというのに、郭嘉はなかば当てこすりのように、口火を切った。
「張遼は、基本の基本しか教えてくれずに、同じコトを何度も繰り返させるだけだ」
 感情の起伏の激しい郭嘉は、物事に熱中するときは異様な集中力を見せるが、いちど飽きてしまうと、注意力が散漫になる。
「…何事も基本は大事です」
 に……ッと傷だらけの顔をほころばせて、楽進は、云った。
「基本さえしっかりしていれば、いずれ応用が利くようになります」
 ――張遼どのは、正しい。
「左様…張遼どのほどのお方に教えていただけるなら、幸甚とせねば罰当たりですぞ」
 四人の間を、一陣の風が渡り、黄河が地平の果てに消失する一点の向こうに落日が姿を消した。
 水鳥が、一斉に羽ばたき、中空へと舞い上がった。
 羽音に驚いたのは、栗毛の馬だった。
 棹立ちになったかと見た次の瞬間、まるで、なにかに追い立てられるように、走り出す。
「……!!?」
 止めて止まるものでもなく。
 見る間に全速で走る駿麗を、三人は、追った。
 少し行ったところで、不意を食らった郭嘉が、あっさりと空に投げ出され、そのまま、地面に、落ちた。
「…駿麗〜〜〜」
 張遼に目配せをして、空馬となった駿麗を、楽進が追いかけ、それに続きながら、荀攸が遠く小さくなってゆく駿麗に呼びかける。
「落し物ですよ」








 郭嘉は、拗ねて道端に大の字に転がったままだ。
「怪我は、ないかね?」
 鞍を降り、助け起こし、郭嘉を両腕に抱えて、張遼は黄河の岸辺に佇んだ。
「戦局は、ここから動く…」
 長い沈黙のあと、郭嘉は、云った。
 ―――祝宴で幕を閉じる戦いとするために。
  ―――打てるだけの手は、打った。
「俺は、あんたを信じるだけさ」
 状況が、どれだけ不利で…
「このままあんたをさらって地の果てに逃げ出したくても。
 あんたの胸の裡にある秘策が、乾坤一擲の大博打だったとしても。
 俺は、あんたを信じる」
「…根拠のない確信は、ただの迷妄かも知れぬが、よいのか?」
「あんたを信じて負けるならあきらめもつく。
 一緒に滅びるなら、いっそ、それこそが救済だろうな」
 ちらり…上目に張遼を見あげ…なぜ。
 この、夕闇のなかで、あなたが眩しい。



「負けはせぬから、安心して…あんたは殿の傍らでおとなしくしていてくれないか?」
「…陣を動くなと?」
「あんたに馬術を教えるより、馬にあんたの扱いを教えるほうが手軽なような気がするのでな」
「……!!!」
「なにがあっても、あんたを目指して、俺は還る」
 …軍師殿、乾杯…と、祝宴の晴れやかな表舞台で、あんたを勝利の美酒に酔わせるために。



 目指し還る、かがり火のある場所に。
 完全なる勝利を。



That's all over

That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年11月27日 20:31)
文責:市川春猫