『愛よりほかに。』




 風は夜露を含んだが、空は茜の艶麗を装ったままだった。



 曹操が自ら包丁を握り、料理人たちを指揮して文武百官に馳走を振舞うと布告されてから、初めて招待されるものは胸をときめかせ、曹操の料理の内実を知る股肱の臣たちは今年の趣向はどれほど恐ろしいものなのだろうかと、戦々恐々で、なんとか断りを入れることが出来ないものか、と、ない知恵を絞るのに汲々としていた。
 が…
 日月は速やかに流れ去り、期待と不安が相半ばする、宴会の当日が、やってきた。
「曹公の料理の技術については、申し分ないのだ」
 一種の異能と云える集中力と、持ち前の好奇心で、いちど興味を覚えたものは、達人の域にまで到達しなければ気のすまない曹操の料理の腕前は間違いなく、一級品のものだった。
「ならばなにゆえ両夏侯将軍を始め、お歴々の顔色がすぐれないのだ?」
「…あのお方の料理は…」
 会堂へ続く、長い渡り廊下の高い天井の下を、ちょっと見には大人と子どもほどの背丈の違いのあるふたりが、すれ違う人々に丁寧な会釈をされながら、歩いている。
 癖のある、触れると童子めいて繊い、柔らかに頼りない黒い髪を不器用にひとつにまとめた郭嘉と、銀の針か水晶の亀裂のようにも見える豊かな髪を逆立てた張遼が、これもまた礼儀にのっとった返礼をしながら、途切れることなく話を続けていた。
「料理を創作されるのならば、よい」
 常ならば、辺りかまわぬ声高な口調の郭嘉が、声を潜めて云うことには…
「曹公は…料理を発明なさるのだ」
「…はつめい……?」
「見れば、判る。
 …食べずとも、判る」



 大会堂は、宴席をしつらえる侍女や料理を運び込む担当の者たちで、まさに戦争に近いほどの熱気を帯びていた。
 いにしえの殷の紂王が行ったと云う酒池肉林の饗宴には及ばないが、その足許には匹敵するのではないかと思われる、派手好きな曹操らしい、華やかな宴会となっていた。
「よお!
 来たな!
 まあ、座れ」
 ふたりの姿を目敏く見つけた、身軽な服装の曹操が、手を振った。
 見れば、曹操の座る最も上席の近くには、なじみの顔ぶれが勢ぞろいしている。
 ふたつ並んで空いた席に、郭嘉と張遼は謹んで、着座した。
 まさに芸術品と等価の、目にも綾な御馳走の数々と、それぞれの席にひとつ、蓋がされて中身の見えない小ぶりな鉢が添えられている。
「郭嘉と張遼が着たからな、小鉢の蓋を開けていいぞ」
 上機嫌で、曹操が指示を出すと、お預けのままおとなしく許しを待っていた飼い犬よろしく…一同は、恐る恐る、蓋を開けた。
「ぐはぁっ……
 孟徳ッ!
 これはなんだっ!?」
 曹操が『阿瞞』と呼ばれていた時分からの長い付き合いがある夏侯惇が、隻眼で、鉢の中と曹操を見比べながら、吼えるように、訊いた。
「まぐろのめだまの炙り焼きだ」
 しれ…っと。
 曹操は、答えた。
 曹仁には『水ダコの酢の物』
 荀ケには『ナマコの姿焼き』
 楽進には『犀の延髄のぶつ切り』
 賈文和には『ガラガラヘビの煮凝り』
 喰わないのか…?
 喰うよな……
 曹操の、世にも恐ろしい視線に射すくめられては、群臣一同は、この世の食物とも思えない小鉢の中身を、食べずには、いられない。
「ねぇ…これって……」
 小声で隣の叔父御に、自分の当たった小鉢の中身の正体を問い質そうとして、荀攸が口を開いたその瞬間…
「攸よ、いいモノに当たったな。
 それは木乃伊の含め煮だ。
 天下の珍味だぞ」
 荀攸の表情が、凍てついたようにどんよりしたのは、云うまでもない。
「郭嘉…どのは何が当たられた?」
「いつも云っているが、付け忘れるような敬称は、付けなくてよいと…」
 かぱ。
 と、開けてびっくり玉手箱……
「……曹公……これは、いったいいかなるものでありましょう……」
 小鉢の中には、なにやら刻んだようにぷちぷちぴちぴちした、桃色の小さな切片が、匙にひと掬いほど、入っていた。
「ミミズのナマス」
「!!!!!?」
「郭嘉…どの!!?」
 脳貧血を起こして、後ろにひっくり返ってしまった郭嘉をあわてて張遼は抱き起こす。
「相変わらず郭嘉には冗談が通じないな。
 それはホントは孔雀の舌の煮びたしだ。
 掛け値なしの珍味なんだがなぁ…」
「阿瞞〜〜〜〜っ!」

 
 
 よほどに『ミミズ』の一言が衝撃的だったと見えて、せっかくの『ごく普通の』料理にさえほとんど手をつけずに宴席を辞去してしまった郭嘉に付き合って、自らも引き続いての酒宴を辞退して、張遼は、私邸に郭嘉を伴った。
「腹が減っただろう?」
「食い物は、要らない。
 酒をくれ」
「カラ酒は身体に悪いぞ」
「長生きしそうにないから、酒くらいは、好きなときに好きなだけ飲みたい」
 みゃぁみゃぁ鳴きながら…23匹の猫が、張遼にエサをねだる。
 例の…孔雀の舌を代りに平らげてくれた張遼に、居間の座り心地のいい籐の椅子に身を沈め、雪白と名付けた子猫を膝に抱きながら、郭嘉は、卓子を挟んで向かい合った張遼に、きつく吊った眸を、向けた。
「あんたは…好き嫌いってないのか?」
 郭嘉の、食わず嫌いと偏食は、かなり有名な話だった。
 夏侯惇には耳にタコが出来るまで『好き嫌いをするな』と懇々と諭され、徐晃には『大きくなれませんやな』と、成長期はすでに過ぎ去ったと云うのに訳のわからない忠告を受け、細かいことにはまったく神経の行き渡らない曹仁にまで……酔っ払って喧嘩するのは御愛嬌であって…このふたり、素面のときは至って仲がよいのであるが…曹仁にまで『野菜を食え』と云い渡される有様で…張遼に至っては、食の細い郭嘉に、下手をすると手ずから口にエサをねじ込みかねないほどに、心底、郭嘉の躰を案じていた。
「戦場で…我侭を云っていたら、何も喰えないだろう?」
 兵糧があれば、まだいい。
 喰えるものは、みな喰らい。
 何も無くなれば泥水を啜り、木の根を齧り…それでも足りなければ……
「人間だって喰らって生き延びるさ」
 …幸いにも、まだそこまでの負け戦はしたことが無いがね……
「そんな戦は……俺がさせない」
「郭嘉…どの…?」
「奉孝でいいといつも……」
 膝の上の、子猫が、鳴いた。



 少女めいて…
 豊饒とは対極の蒼い果実のままで朽ちてゆくいたいけを…諸手に抱きしめて愛惜する昏い情欲の深淵に……
 世に背を向けたまま、堕ちてゆきたい…
 夢見たものは。
 叶えられない、夢なのか。
「もうすこし、な」
「…ぁ……」
 何に…突き動かされるかは、知らぬ。
 愛しいものの傍らに寄り添い、抱きすくめ、哀しいほどの、存在の不確かさに、不安を覚え、欲すれど…希うほどには重なり合うことの出来ないもどかしさに、砂を噛むほどの焦燥で、胸のうちの切実を、押し殺す。
「もう少し、贅肉なり、脂身なり、身につけてくれないか?」
「…なにを突然……俺は、生憎、食べても太らない体質なんだ」
「見境もなく、抱きしめたら、壊れそうで、怖いんだよ」
「……莫迦」



 愛は…魂の栄養。
 





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2004年11月18日 23:16)
文責:市川春猫