『名もなき者の墓標』
門松は冥土の旅の一里塚
めでたくもあり めでたくもなし
その愛しさは、むしろ…痛みに、近い。
「ずいぶんと、静かだ」
新年を祝う、街の喧騒は、ここにはもう、届かない。
街区を外れた、何故だか開発の波に取り残された、風流と云えば聞こえのいい、張遼が古蒼な屋敷を与えられた一画は、雪合戦や凧揚げに興じる子どもたちの歓声すら響くことがなく、大晦日の夜半に降り積もった雪に埋もれて、森閑と静まり返っていた。
「このあたりが…何故、ひと気もなくうち捨てられたままにされているか、ご存知か?」
仔細に眺めたならば、巧緻な意匠を凝らした、熟達した職人の手で織り上げられた絹の深衣を身につけた男が、いちど見ただけで、終生忘れることの出来ない眼差しを向けて、問うた。
春には春…
夏には夏…
秋には秋…
折々に、妍を競うかに咲き乱れる花が季節を飾る庭に…いまは、柔らかな綿雪の褥が暖かに覆い被されている。
きゅ…
彼の……情人の足許で、遥かな高みから舞い降りて、壊れることなく地上に届いた雪の結晶が、砕けて啼いた。
麗らかに、晴れわたる、青い空に…太陽は、目映い。
「…さて、ね」
住めば都。
ただ…愛しいもののいる場所がおのが安息の地と思い極める男にとって、視界に映るのが灼熱の砂漠であれ、凍土の曠野であれ、意に介するべき事柄ではなく、なんとなれば…海の底であれ天の窮みであれ、情人が居るならば、そこが楽園であり、彼の想像しうる最良の…約束の地であった。
「墓場が…あるのだ」
庭を超え…木立の向こう…
ゆるやかな稜線を描く低い山と云うよりは、なだらかな丘陵が、やはり、雪化粧をされて連なっているのが望見できる。
「いまよりも、もっと古い時代には、風葬の地であったそうだ」
浅く地面を掻いただけで、いまでも朽ちて飴色になった骨が、出てくるのだとか…
「あの丘から吹き降ろしてくる風に乗って…死者の嘆きが聴こえてくるから」
このあたりには…
誰も好んで住みたがるものが、居ない。
肩越しに、振り返り、彼の情人は…逆光となった男の表情を、わずかに片目を眇めて、見上げる。
男が、いつもの、どこか…おぼろげに輪郭の滲むような、捉えどころのない意味合いの不明瞭な笑顔を見せると、彼の情人は…ゆっくりと、男に向き直った。
す……っ、と。
片方の手のひらを男に向けて、繊く、華奢な…男の目にはもはや…千金を積んでも得ることの出来ない異国の宝石細工のようなゆびを…いっぽんずつ、折り曲げてゆく。
そして…
「呂奉先」
まずは、おやゆび。
「陳広台」
つぎは、ひとさしゆび。
「袁本初」
それから、なかゆび。
「高順」
つづけて、くすりゆび。
男の笑顔が、翳ることは、なかった。
「このゆびは……誰のものになるだろうか?」
触れたなら…血の通うとは、とても思えないほどに冷え切ったそのゆびは……まるで。
―――名も無き者の墓標。
「奉孝」
この白日に…夜の闇と同じ色の眸が、男を見据え、瞶めている。
「わたしたちは…」
―――奪った命で生きている。
贖罪の言葉が、何になる?
「…奉孝」
その眸は、黒水晶の、牢獄。
瞶めたはずの眸のなかに、囚われているのはとりもなおさず男自身の姿。
言葉にはならない衝迫に衝き動かされ、男は…切なさを諸手に擁く。
「文遠…」
甜い疚しさ…後ろめたさに…射竦められた束縛は…身を刻むほどの、悦楽。
「俺たちは…」
それが言い訳でも……
生きるために、殺し。
殺すために、生きて。
生かすために、死ぬ。
たとえば…
殺してしまわなければ安堵できないほどの狂おしさで、瞶めるものに瞶め返され、心の底を見透かされた狼狽を、息をひそめた狡猾さで覆い隠し、うわべにはただ静寂な微笑でもって報いると、手を伸ばせば不意にかき消えてしまいそうな儚さで、彼の情人は男の思惟の届かない辺縁の果てへと彷徨いいでてしまうので…
だから。
この身が骨の欠片すら遺すことなく滅び去ってしまっても……
繋ぎ合わせた心は永遠だと……
風よ、謳え。
「はぅ……」
真綿のように柔らかな、雪の褥で交わりつがう……
生の横溢はやがて…死の寂滅に向かおうとも……
偽り多き人生に…
たった一つの真実はあったと。
風よ……名もなき者の墓標に刻め。
That's all over.
製作年月日:(2006年1月 2日 22:49)文責:市川春猫