幻影は、夢に揺らぐ。




 常在戦場。
 腐肉の泥濘と血漿の汚濁に身を置く者なれば、眠りのなかでさえ、命を繋ぐための神経は、鋭利な刃物の切っ先のように、研ぎ澄まされている。
 後世に伝わる逸話を遺した男の身の上にあっても、それは至極当然の備えと云えた。
 けれど、その夜は…
 夢が求めるひとの姿と変化したのか、飢えるひとが夢と変容したのか…
 蒼穹高くに、真昼の猫の瞳のように細く輝く月の光が、ようやくに届く深い水底のようなこの臥所に、男の眠りを醒ますことなく滑り込んできたうす冷たいのに奇妙な熱を孕んだ華奢な痩躯が、ひた……と縋りついてきたことに、男は咄嗟の状況把握が、できなかった。



「…奉孝……?」
 男の首筋を、さらさらと…絹糸に似て繊く柔らかな髪が、ありなしのざわめきで、くすぐる。
「起こしてしまった」
「…どうして……」
 ――ここに。
「残念だ」
 温かみの、ほとんど感じられない荒く織り出された毛織物の掛布の下で、笑う気配が、ひそやかに…
「…残念?」
「今なら、あなたの寝首を掻けた」
「…俺を殺して、なんとする?」
「あなたの首を、銀の皿にでも載せて、くちづけたあとに…さて……」
 ―――貪り喰らおうか。



 春は名のみの、ひとり寝の肌寒さ。
「わたしが耐えかねたとて、不思議はあるまい…?」
 それとも。
「わたしがあなたに欲情しては、おかしいだろうか…?」
 夢だ…
 靄然と…なにもかもが朧に霞んだように現実感の伴わない視界のなかで、躰だけが操られるかに、情人の膚肌のこころよさに、あるべき反応を萌しはじめる。
「きつく……」
 ―――して欲しい。



 眠れないから。



 まるで…
 禁忌というものを知らない幼子のように、おまえは……
 自身を突き動かす情欲に、とても、素直だ。
 気が向けば、相手の骨の髄までをも啜り尽くすかに貪欲でありながら、満ち足りてしまってのちは、捕食した獲物をこころゆくまで形も残らず咀嚼した肉食のケダモノのように、怠惰にしどけない物憂さで、快楽の彼岸に置き去りにして背を向けたものに、冷淡だ。



 絶対零度の焔が在るなら、それは……
 張文遠の眸には、郭奉孝の姿と映ることだろう。



 唆られて…男は人形めいていとけない躯をおし展く。
 交わりは…男の、繊弱を冒すことへの謂われなき罪障の桎梏により、欲望するだけの暴虐によって終焉を迎えることなど、なかった。
「………」
 囁き交わす、睦言の甘さは、さらになく…
 おのれの力の奔騰を、恣に恋情の対象へと注ぐ蛮行の最果てに、なにがあるのか……
 恐懼に、男は、求めることを、自ら拒む。
「…あなたは……いつでも、哀しいほどに、優しいな…」
 ――殺されてもいいのに……



 今宵は月より…
 星がさやかだ…
 銀河はどこへと流れつくのだろう… 





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||
製作年月日:(2005年2月 6日 23:21)
文責:市川春猫