『庭の木陰で、春浅いころ。』




 うち捨てられ、忘れ去られた庭にも、春は巡ってくるはずだった。
 おりおりに手を入れて、大切に草花や樹木たちを慈しみ育んだ者が姿を消してからも、自然に授かった生命力の確かさで、その庭はひとつの小宇宙のように、季節ごとのたたずまいで、時の流れのなかに埋もれていた。
「今年は立春が過ぎたというのに、まだ寒いな」
 さく…と。
 薄く降り積もった雪が、郭奉孝の履のしたで鳴る。
 雪…と云うよりは、霙に近い肌理の粗さは、春に近い頃合いに降る雪の常で、多分に水気を含むゆえに、重い。
「せっかくの梅の蕾も、だめになってしまう」
 日当たりのよい場所を択んで植えられた梅の古木にも淡雪がところどころに融け残っていた。
「ご存知か?」
 肌着を二枚に重ねた上に、厚手の袍を着込み、さらに頭から頭巾のように母衣を被っている…つまり、極端な寒がりの……郭奉孝は不意に、振り返って、三歩あとをついて来た男を、仰ぎ見た。
「二月の雅名を『雪消し月』と云う」
「初耳だな」
 こちらは、兵卒たちが見慣れた、重厚な鎧を身につけていないだけで、いつもとさほどに変わらない身仕舞いの張文遠が、わずかに片目を眇めて、情人を、見おろした。
「風流とは、無縁なのでね」
 しん…と、張り詰めた空気は晩冬のものながら、降り注ぐ光は早春の強さで、地上を銀色に染め変えてしまった雪に反射する輝きは、目を射るほどの眩しさだった。
 むろん…男に目映いのは、ただそれだけではなく……



「……なんだ?」
 瞶められて、いつもの癖の、背筋を反らせる仕草で真正面から視線を返す郭奉孝の子どもめいた意地の張りかたに、男は微笑する。
「ふくら雀のようだ」
「……抛っておいていただこう」
 寒がりを、暗に揶揄されて、感情が素直に顔に出る郭奉孝は、脣を、尖らせる。
 まるで…
 くちづけをねだるようだ…と、視たのは男の手前勝手な独り決めで、まだ…陽がもっとも高いところへは昇りきらない日中に、ひとの目も、どこかには在るはずなのに、無意識に伸ばされた手は、欲望の対象を、絡めとる。
「………?」



「あんたも…溶けてしまいそうだ」
「…莫迦を、云うな」
 寒さを防ぐための衣に、厚く身を包んでさえ、その躰は、繊く、頼りない。
 いかなる嗜癖の帰結か、豊潤に実った滴るほどに肉惑的な、白い脂が満ちて爛熟した肢体よりも、蒼く儚げに痛々しいほどのあやうさで力の加減を誤れば容易く壊れてしまいそうな華奢に昏い情欲を覚える男にとって、諸手に抱く存在の不確かさは、空恐ろしいほどの狂執でもって男を捉え、罪障も禁忌も逡巡をも踏み越えて、妄念の混沌に身動きもならず縛りつける。



 重ね合わせた脣には…
 淡雪に薄化粧したほころびかけの紅梅の葩ほどのぬくもりもなく……



「このまま…抱いていたい」
「無茶を、云う」



 男の耳に…情人の潜めた声は、猥らなまでに清冽に、響いた。



 蒼い空から、はらり…はら…はら……
 風にのり、遙かより流れ来たり、舞い落ちて来た雪のかけらが、張文遠の髪に、肩に、背中に、降りかかる。



「綺麗だな……」
 男の、懐深くに擁かれたまま、肩越しに、空を見上げる郭奉孝に、張文遠は、云った。
「知っているとは思うが、な…奉孝」
「…ん?」
「晴れた空から落ちてくる…こんな雪を」



 ―――風花、と…云う。



「初耳だ」



 明日にはきっと。
 うららかな、春の日和が戻るだろう……





That's all over.


||モドル|| novel|| ススム||

製作年月日:(2005年2月11日 16:02)
文責:市川春猫