抱擁〜真夜中を抱いて眠れ
夜に啾くもの…
あれは、ひとでなし…
締め切ったよろい戸の、細い隙間から、それでも…月の光は斜めに闇を切り裂いて、明かりも消え果てた部屋の半ばに差し込んでいた。
それと気づかぬほどの緩やかさで、青みを帯びた、透明なのにどこか不確かに鮮明を缺く月の光は、角度を変えてゆく。
「……ん………」
声は…猥らめいて、甘い。
磐石な、巌のような…獰悪とさえ形容できる、底知れない力を秘めた体躯の下で、痛々しいほどに華奢で、人形めいて脆薄な肢体が、痛苦に耐えるひととおなじ切実に、ふるえていた。
「…奉孝」
わずかながらの光があれば、物の形を見透かしてしまう男の視力は、もはや、人離れして、禽獣のそれに、近い。
血が通っているかと訝しむ、月明かりさえが色を失うほどに皓く冴えた肌膚に、季節に遅れた寒椿の葩が散り惑うように、男の唇が捺しつけた烙印は…濃く…淡く……男が責め苛むかに慈しむ対象を彩っている。
夜さり…物思いなどせぬ男にとって、今、こうして諸手に擁く存在とは、この世のものとも思えぬ蠱惑に満ちた…もはやあやかしと同列のものだった。
巧緻にして清冽。
純粋にして淫猥。
形而上を語る言葉を持たない男にしてみるならば、郭奉孝とは…つまり……
驚嘆とともに畏怖するよりほかない、一個の奇跡に等しい。
「苦しいのか…?」
力の加減を誤れば、容易く壊してしまう…
その認識が、男を悦楽の極みに溺れることを指嗾する本能の暴発を辛くも押し留める歯止めとなっていた。
きつく寄せられた眉に、問いかけられた者が受容している感覚が快楽なのか苦患なのか…推し量れるものは、何一つ浮かび上がることがなかった。
―――返事は、ない。
「奉孝…」
膚をあわせ…舌尖を、繊い鎖骨へと這わせただけで、この世ならざる場所へと彷徨いだしてしまった、いたいけな少女…男の目には童女とも見まごう痩躯を、郭奉孝は痙攣に似た仕草で、身じろぎさせた。
幽かにひらいた脣から、真珠を刻んだかの歯列が覗き、その奥の深淵が、言葉を紡ぎだすのを、男は…呼吸すら忘れて寂として待ち侘びた。
この哀切を貪ることに懼れさえ抱きながら、それでもなお…
――ほかの誰かがおなじことをしただろう……
淫欲の無間地獄に堕ちた者の居直りで、愛惜を免罪符におのれの正当を言い訳する後ろめたさに、張文遠は我知らず狼狽する。
愛トハ…ツマリ、暴力ダ。
いたい…と。
泣き喚かれたところで、いちど堰を切った欲望の奔流の中断を、誰が為し果せることができるというのか。
長い沈黙のあとで。
郭奉孝の鼓動を、確かめるかに胸許に耳を寄せる張文遠の髪に、綺麗に研ぎ上げた爪を持った指を沈ませながら、彼の情人は、訊いた。
「……なぜ、やめる……?」
「無理強いはしたくない」
「……いくじなし」
疵ひとつ、つけることなど、できない。
薄青い、闇に目をとじ…
彼我の境を夢に鎔かして……今は、もう。
真夜中を抱いて、眠れ。
That's all over.
||モドル|| 『大本營發表』|| ススム||
製作年月日:(2005年1月31日 00:00)
文責:市川春猫