『沈みゆく月』
金の眸に銀の爪。
闇夜に熔けた、からす猫。
世の中に、必要なのはあなたのような人間であって、実際のところ、さて……
わたしなどに、いったいどこの誰が生を永らえる赦しを与えているのか。
ほろ苦く笑う、その晦渋に、男が答える言葉を持つはずもなく。
「何かを作り出すわけでも…
何かを育むわけでもない。
ましてや後世に残す何物もない。
『無』は永遠の無であって、そこには一筋の希望たる光明すら、あり得はしない。
生命を連鎖させる環のひとつであることが、ひとに課された最大の至上命題であるならば…わたしになど、かけらほどの値打ちもない」
徹底的な否定は、つまり。
その言葉の奥底で、肯定を希求している。
月が…上弦の月が、真夜中の底に沈みゆく。
陽の光のしたで見るならば、あれほどまでに自信に溢れ、倨傲とすら受け取られる…天に愛されたとしか…男の目には映らぬ非凡な才をその身にいくつも与えられた彼の情人は、真夜中のかそけき月明かりのなかでは、ひとがわりしたかに、繊弱だった。
―――ひともなげな振舞いは、極度の不安の裏返し。
ことさらに、毛を逆立てて、自身をおおきく見せ、敵を威嚇するケモノと同じ、身を守るために生きるうえで習い覚えてしまった、悲しいつよがり……
ほんとうに勁いものは……
おのれの存在のあり方に、疑問など持ちはしない。
「…奉孝」
ゆらゆら…と。
天井近くの壁に作り付けにされた燭台から、朧にあたりを照らしだす淡い炎の色が、身じろぎのたびに漣が立つ湯の面に乱反射をしていた。
言葉の意味で正確に…
交わした、とも云えない束の間の情交の挙句にはいつも、犯した罪障がそれで祓えるかとでも言い訳するかに、男は…情人を洗い清めるために湯殿に伴うのが、常だった。
人肌よりも低い温度に冷めてしまった湯のなかでは、身を温めるには互い…互いにわが身のぬくもりを分かち合うよりほかになく。
彼我の境が溶けあうほどに。
地獄とは……
ぬるま湯のようなものなのやも、知れぬ。
ひとたび身を置けば、心地よさに我を忘れ……抜け出そうとするならば……宿業に濡れそぼった躰に、現実の風は灼熱の冷涼で、報いる。
「あんたが魑であれ魍であれ…
おれにはまったくかまわない…」
「このわたしが…ばけもの……とは、云いも云ったり、と感心しておこう」
乾いているならば、子どもめいて繊く柔らかな、わずかに癖のあるゆるく波打つ絹糸の手触りの黒髪は、掴み締めて力を籠めたならたやすく折れてしまいそうな首筋に濡れついて縺れ乱れていた。
数人が、いちどに汗を流すことのできるようにとしつらえられた湯船のなかで、男の膝に、対面して載せられた、情人の躰は、浮力によらずとも男には鴻毛の軽さであるのに、水のなかでは、その存在が虚像ではないかと錯覚するほどに、現実味が感じられなかった。
楔を穿ち、繋ぎとめ、いっそ……
―――殺してしまえばこの存在が現実と…
理解も納得も、できようか。
明り取りの窓から、ありなしの月の光が差し込んで、遠い異国で神の似姿として崇められている石を刻み、柔らかな曲線を持った彫像の静けさと艶めかしさで、男を瞶めている情人を蒼に近い銀色の輝きに、縁取っていた。
……この狂おしさは、何だ。
答えを道連れに…
上弦の月が沈みゆく……
That's all over.
製作年月日:(2005年5月16日 00:00)文責:市川春猫