『星を数えて夢見ましょう。』
愛しいひとよ。
日が落ちて、地上にわだかまる白昼の炎暑の名残は、乾いた西風に吹き払われて、その気配すらとどめてはいなかった。
取り立てた装飾のない、臥所の上には半身を絹の褥に包まれた人影がひとつ。
わずかばかり、肩先が起伏することで、その人物が、ようやくに熱気の衰えた真夜中、安らかに眠りについていることが、知れた。
明るい場所で見たならば、銀色に近いほどの色素の薄い髪は、彼の情人が『針水晶のよう』と喩えるほどに、鋭い輝きをもっていた。
「まったく……罪のない顔をして、寝ている」
羨ましいほどに、健やかな、男なのだ…
それは、心身両面について云えることで、陰鬱とも憂悶ともまるで無縁のこの男は、いつも穏やかに明朗で、軽やかに透明だった。
―――あなたには、悩みなど、ないようだ。
黄昏どきの、溶暗が忍び寄る薄暮のなかで、泉のほとりをそぞろ歩きながら、頸を傾げるように、男を見上げて、非難…とも羨望…ともつかない、それは、天邪鬼な性格が、素直な物言いを許さない、彼の情人の遠まわしな睦言であったのかも知れない。
―――悩む暇があるほど、人生は長くはないさ。
片腕に抱き上げられて、男の背丈よりも高いところに視界の開けた彼の情人は、見慣れたはずの風景が、さらに広く、遠くまで見渡せることに、新鮮な驚きを発見した。
「生きていることが窮屈で、どうにも我慢が出来ないものだと思ったら」
不意に立ち止まり、今度は…
男が、愛しいものを、見上げる形と、なった。
「星を見ると、いい」
「……星?」
月を、花を、虹を、雲を、雨を、風を、雪を……
『自分』以外のものに目を向けて、ゆっくりと…眺めたことが、あるか。
「ひとの一生など、瞬きをするほんの束の間だと思えて、な」
「……」
「たいていのことは、気にならなく、なる」
「生憎だが、わたしはあなたほど悟り済ますことが、出来ない」
……こんなところで。
抗議は甘く、脣のなかに、溶けた。
泉の清冽に、素裸足を浸して、涼む。
薄暗がりの、夜の色に染まりかけた水のなかで、彼の情人の、象牙を刻んだかに華奢な、作り物めいた指先が、皓く、目映い。
「……文遠」
名を呼ぶ声は、遠いまぼろし。
男にとって…
恋い慕う、愛しいひとは、つまり。
ひとの形をした不可解なので。
瞶める視線を逸らすことの出来ない、魅惑。
蒼い草いきれのなかで、男は…解き難い、謎を解くかの神妙さで、情人の躰を恣意のままに、展かせて、どこまでも深く…惑溺する。
「……奉孝」
あなたがくれる悦楽は。
いつも。
苦いほどに甘い、幽愁。
ひとたび憶えてしまったなら、もはや…
忘れることなど出来はしない…
身を滅ぼしても悔いのない。
麻薬。
草の葉裏に露が結ぶのは、まだ…
先の季節のことだった。
満天を、光の強さのそれぞれに異なる星が無数の輝きでもって装う頃合いに、仮寝の閨へと抱き運ばれた彼の情人は、夜を徹しても眠ることの出来ない神経の鋭敏を密かに嘆息しながら、ひとくちの果実酒を求めて、静まり返った厨房の闇のなかを彷徨い、とうとう求めるものを探しあぐねて、臥所に戻れば、自侭に身勝手にわが身を慰むかに自在に操るこの男は、ひとり、満ち足りた微笑すら浮かべて、夢路の彼方。
「まったく……」
ろ、く、で、な、し。
なのに。
こんなに哀しい。
こんなに愛しい。
……いにしえの言葉では。
愛しいと哀しいは同義であったそうだ。
いとしいひとよ。
死がふたりを別つまで。
もう少し…
あと少し…
このままに夢を見せて。
That's all over.
製作年月日:(2005年7月21日 23:09)文責:市川春猫