『まことの安らぎはこの世にはなく。』
雨の降る日は、うまく騙して。
風は強くはなかったが、銀の糸のように細かな雨は、衰えを見せなかった。
明け方…まだ夢路に遊ぶ頃合いに、眠りを妨げるほどの揺れに目を醒ました郭奉孝は、それきり、目を閉じても眠るに眠れず、さりとて、起きだして一杯のコーヒーを淹れる支度をする気にもなれず…意識は冴えているのに躰が云うことをきかない、奇妙な状態に身を置いたまま、まどろみ続けていた。
「……奉孝」
訊いたところで、いつもの、淡く暖かい…けれど、柔らかな霧に包まれたかに捉えどころのない、もしも有り得るならば…明瞭なる不可視…そんな笑顔で、はぐらかし、問いも答えもなし崩しにどこかへ消え果てしまうのが常なので、この男の過去を知るための努力などは、とうに、やめてしまった。
見た目の印象とは裏腹に、手先の器用な男は、いったい、人生のどのあたりで身につけたものか、いろいろな特技を持っていた。
「…どうやって……」
合鍵を渡した憶えは、ついぞ、ない。
「無用心だな」
――ドアにチェーンがかかっていなかった。
「…あなたの前ではあってないようなものだ」
針金が一本あれば、たいていのドアの鍵は開けることができる。
「この世で最も人畜無害なふりをして、あなたは、その気になれば笑ってひとを殺めるのだろうな」
「…物騒なことを真顔で云わないで欲しいものだが」
……否定も肯定もしないところが、この男の底知れない恐ろしさでも、あった。
カーテンをひかずに眠る癖のある、郭奉孝の寝室には、晴れているならいま時分は燦々たる陽光が溢れ、空の低いところを飛ぶ鳥の影がよぎることもあった。
鉛色に雨雲が上空を覆い尽くしている。
時が…止まっているかの、モノクロームの世界の中に溶け込んで、男が幻のようだったので……
「抱いてくれないだろうか」
欲望を口にするとき、彼の情人は、とても、素直だ。
「きっと……よく眠れるだろうから」
ひとたび、躰をあわせたならば、そこに、淫娃はあれども言葉は、なかった。
睦言を、空虚と退ける情人に、唇を封じられ、思いを伝えるための手立てのなかばを禁じられた男は、だから……
ゆびの動きに、すべての思いを、載せる。
舌の尖で、情人の肌膚に、情欲を、刻む。
「………」
折れそうに、繊い…とは、情人を至上の崇高と視る男の欲目に過ぎない錯覚かもしれず…剰った肉のかけらもない、つくりものめいて華奢な躰をきつく擁いたなら、耐えもならずに壊れてしまいそうで……幾許の罪悪感を心の片隅に気に掛けながらも、男は、なぜ…と、自身にも説明のつかない昏い淫欲の迸りに煽られるままに、未熟なままに朽ち果ててゆく果実のような味わいに、惑溺する。
まるで、麻薬。
「……奉孝」
問いかけに、答えはない。
犯すものに侵されて……
男の意識もまた、しだいしだいに混迷し、拡散してゆく。
昼夜の区別も朧となり…降り込める雨の音だけが静かにふたりを包んでいた。
まことの安らぎはこの世にはなく。
地上でもっとも天に近い場所に咲く花は……
空の色を映して蒼い、嬰栗だとか……
That's all over.