『愚かなり、わが心。』




 冴え冴えと、うす蒼く血の色を透かすほど皓い頬に、朱をひと刷けさしたかに赤みが浮かび上がる。
「言葉で俺の手が、払いのけられるか?」



 殺される。



「……!」



 ―――なぜだ?



「華奢なもんだな」
 手の力が緩み、突き放されるように、郭嘉は自由を取り戻した。
 肺腑は新鮮な空気を求め、喘ぎは欲求に追いつかず、身体を丸めて激しく咳き込むと、布団を握り締めた手の甲に、涙の雫が滴った。
 喘鳴だけがしばし続いた。
「俺になんの恨みがある!」
 きつい視線で睨(ね)めつける。
 遊興と放蕩の明け暮れの中で、知らず、誰かに遺恨をもたれていない…とは、云い切れない。
 矯激で峻烈な性格は、万人に愛されるものでもなし、ひとたび三寸の舌尖が敵意を持って毒を孕めば、言葉の礫は相手に息をもつかせぬ凶器となって、ことの顛末には血の雨を降らせかねない仕儀となる。
 けれど。
 ひとたびその任を離れたならば、温厚篤実とまで評される、どこか初々しいまでに純真な面のあるこの男に、まかり間違えても恨みを買うような真似はしなかったはずだ…
「あやういな…」
 誰にでもあけすけな態度で上下の隔てなく接する徐晃とはまた別の器量の大きさで、親身に暖かな張遼のひとあたりのよさはつとに知られている。
 滅多に顔をあわせることはなかったが、なぜか…すれ違うたびに十六、七の小娘に意見する親爺のように、あれこれと小言めいた口を利く張遼を、郭嘉は内心はた迷惑に思いながら、表向き敬遠する態度をとりはしたが、無意識に、自分に向けられる興味と関心と親愛に、心地よさを感じていたのも確かだった。
「自分で自分の身を守れないなら、ニワトリみたいにあちこちに喧嘩を売って歩くな」
「ニワトリとはなんだ。
 あんた、失敬だな」
「ニワトリがお気に召さなければウズラでもスズメでもアオサギでも好きなのをえらべ」
「喧嘩は俺の趣味だ」
「趣味ならもっと高尚なものにしろ」
「あいにく俺には詩歌管絃に才がない…
 と、云うより、あんたに指図されるいわれはない!」
 つぅ…っと。
 舌の先で左から右へ、上唇を舐める。
 劣勢を立て直し、防禦から攻撃へ反転しようとするときに郭嘉の見せる癖だった。
 ほんの些細なその仕草を、知っているのは曹操くらいのもので、観察眼の優れたほかの軍師たちですら、気付いたものは、居なかった。
 が…
「…ぅ……!?」
 開きかけた唇に、挿しいれられたのは、なかゆび。
「口では、敵わん」
 ひとふし…ふたふし……
 じわり…奥へと、指頭は舌のうえを、滑る。
「喰い千切っても、いいんだよ」
 ゆるく、掻き混ぜられた。
 それは…愛撫。
 手のひらをうえに返し、指を鉤に曲げて、吊り上げるように郭嘉を仰向かせる。
 視線が絡み、噛み合った。
 この男の双眸は、口よりもなお、ものを云う。
 きりきりと、歯を立てる。
 骨まで砕けと…
 口の中に、こみ上げて溢れたものが、郭嘉を侵犯するゆびを濡れつかせ、穢す。



 ……ちゅ。



 抜き出して。
 蜜が伝うような、なかゆびを……
 銜えて、しゃぶる。



「俺の舌は、すべてを味わうためにある」

 




|| モドル|| 『滔天廻路:上演作品目録』|| ススム||
製作年月日:04/11/07
文責:市川春猫