『愚かなり、わが心。』
「郭嘉………どの」
「…付け忘れる敬称なら、なくていい」
「郭嘉」
「奉孝と呼べ」
「注文の多い」
眠っていたのだろうか。
途切れた記憶。
繋がらない思考。
白い闇のなかで、誰かが呼んでいる…
「なぜ俺に構う」
核心から、話題の糸口を引き出す段取りのつけ方は、この男独特のものだ。
「抛っておけないからだろう」
郭嘉をこの場に運び込んだ男の答えは、簡潔だった。
二日と同じ屋根の下で眠ることのない郭嘉にしてみれば、ここがどこであれ、気にかけることではなかったが、いま目の前に居る、山から下りてきた子熊のようにのそりとしていながら、一筋縄ではいかない底知れなさのある男の言動が、理解の外にあることに、一抹の不安を覚える。
「裏小路の隅で友人が行き倒れているのを見かけたら、ふつう、助け起こすだろう」
「…友人?
いつの間に、俺とあんたは誼(よしみ)を通じたんだ?」
「ヒトの揚げ足を取るのは、悪い癖だぞ」
「…ともあれ。
そんな義侠心のある人物だったとはね。
お見逸れしていたようだ」
「そうだな。
あんたは俺を見損なっている」
寝台の、上だ。
曹公の執務室を出て、その足で、色里の場末の胡乱な連中の出入りする酒場で、飲んだ。
異国の酒に…いったいどのような混ぜ物がされていたのか。
きれいさっぱり、切断されたかに、記憶は暗転している。
「ほれ」
寝台から、三間むこう…部屋のほぼ中央に、質素な卓子が置かれ、それに片肘をついた張遼が、背もたれのないまるい椅子に腰を落ち着け、こちらを眺めている。
空いていた片方の手を懐に入れ、動いた…とも見せず、その手が、空を切った。
「…!?」
布団の上に起き直っていた郭嘉の胸元に飛び込んできたのは、自分の財布だった。
「ビタ銭いちまい、なくなっていないはずだ。
もっとも、かっぱらわれても惜しいような金額じゃないようだがね」
「財布の中身まで心配してくれるとは、恐れ入る」
「いい加減にしておけよ」
部屋は、さほどに広くない。
窓のある側とは反対に戸口があり、それに直角する壁面に寄せて、寝台は置かれている。
何の飾りもない、簡略な物ながら、作りはいたって頑丈で、巨躯の張遼ですら、一人寝には余分ができそうなほどの大きさがあった。
「命を削ってまで、酒なんぞ飲むものじゃないだろう」
「…戦のほかには楽しみなんざないんだよ」
哂うべきはこの因果なサガだ。
大気が戦塵に煙り、大地が血を吸ってぬかるむ、生と死が裏表に向かいあうあの場所でしか…
生きている気がしない。
「それにどうやら俺は……」
「……?」
「長生きしそうにない」
「…たしかに、あんたみたいなやつは、長生きしそうにないな」
「云いたいことを云ってくれる」
|| モドル||
『滔天廻路:上演作品目録』||
ススム||
製作年月日:04/11/07
文責:市川春猫