『奥様は軍師:番外編〜君と夜明けのコーヒーを』
「せ、せ、せ、世話になった」
「!!!」
リヴィングへと続くドアを細く開けて、顔を覗かせた呂奉先が、短く、云った。
「広台どのがお見えのようですな」
「い、いる」
……け、気配で、判る。
ケモノにしか、判らぬ勘で、察知している。
「ど、どうする?」
問いは、郭奉孝に向けられたものだ。
このまま、見逃してしまえば、それは、曹孟徳に対する、裏切り。
司直に連絡をしたなら、それは、張文遠の、破滅。
―――どちらを、択ぶ?
一を問えば千を答える。
決断は明快。
逡巡など、その辞書には、ない。
……なのに。
「……文遠」
沈黙の後に、導き出された回答は単純にして、明瞭だった。
「わたしを、殺せ」
あなたには、それが出来るはず。
「大胆すぎる提案だと、思わないかね?」
「わたしには…」
―――択ぶことなど、出来ない。
「どちらを傷つけることも…
室長を悲しませることも…」
きつく吊った…時には鋭く瞶めるものを射すくめる眸が今は、救いを求め、縋りつく。
「たいそうな愁嘆場だが…」
奉孝、客人には、お茶を出せ。
夏侯元譲。
呂奉先。
張文遠。
郭奉孝。
こんな顔ぶれが一堂に会する機会が、そう滅多にあっていいはずが、なかった。
いっそ見事な壮観で、怯えた猫たちは、相変わらずベッドの下で身を寄せ合っていた。
「ふん…すこしはまともな茶が淹れられるようになったか」
褒め言葉にしては、かなりぞんざいな科白を、奥様は、敢えて無視した。
壁の掛け時計は、すでに午前四時を廻っている。
「室長!
こんな夜更け…いえ、このような朝早くに、いったい何のご用件ですかな」
――だいたいにおいて、どうやって我が家に入り込んだのです。
「玄関に、鍵が掛かっていなかったぞ。
無用心だな」
あー。
左目を覆う眼帯の下に、人差しゆびをくぐらせて、夏侯元譲は、当人が云うには、カラカラと音がする…虚ろな眼窩に爪の先を突き入れる。
見ているこちらが恐ろしいのでやめていただきたいものですな…と、何度頼んでもやめない悪癖は、習い性となったものだ。
とるものもとりあえず、お気に入りのオーガニックコットンのガウンを羽織っただけの奥様に、ちらり…流し目を呉れて、曹孟徳の片腕は、云う。
「おまえの亭主は、悪党だ」
「…は?」
とうの本人を目の前に、云いたい放題が云えるのは、夏侯元譲の人徳であった。
「いまだかつて…
曹孟徳をたった一人で脅した男を、俺は見たことが、ない」
「文遠…
あなたはいったい、何をしでかしてくれたのだ!?」
当事者といえば、これ以上の当事者もない呂奉先は、身の回りのてんやわんやをよそに、お茶をすすり、彼の眼には小鉢としか見えない器に盛られたお好みあられを指先につまみ上げ、我関せずの寡黙さで、この場の雰囲気から、一人、超越していた。
「知っている、2,3の事柄と…取引させていただいただけだよ」
……国家反逆罪に問われるほどの人間を救えるだけの『2,3の事柄』……???
「こいつの喰えないところはな、奉孝。
絶対のチャンスを、辛抱強く待ち続けていたってことだ」
――今上陛下の第三皇女が、近く降嫁されるだろう。
慶事に付き物なのは、恩赦だわな。
それに便乗して…
「どさくさ紛れに、罪一等を減じるって詔勅を…孟徳を通じて帝からせしめやがったのさ」
詔勅は、すでに発効している。
電話で済むところを、わざわざ知らせに来てやったのだから、もう少し、下にも置かないおもてなしをしてくれても、罰は、当たらん。
まったく、油断も隙もない。
「ち、ち、馳走になった」
現れたときと同じく…
漂泊の魔人は、飄然と、いずかたへともなく、去っていった。
「…文遠。
何か、もっと、話をすることが、あったのではないか?」
「…生きて、な」
「……」
「生きていてくれるだけで、それで…いい」
――誰にも、一人や二人、そんな人物が、いるものさ。
さて。
この物語もそろそろフィナーレの頃合いなのだけれども。
||モドル||
『滔天廻路:上演作品目録』||
ススム||
製作年月日:2005/08/16
文責:市川春猫