『奥様は軍師:番外編〜君と夜明けのコーヒーを』
いつもなら、居間と食堂が兼用になった部屋の片隅に置かれた猫ハウス…と、奥様が呼んでいるバスケットで三匹揃って身を寄せ合って眠るはずの猫たちが、なぜだか今夜はどう考えても二人で分かち合うには狭すぎるベッドの下に潜り込み、旦那様が呼んでも、出てこようと、しない。
リビングルームには、呂奉先が居る。
「…布団を横に並べて敷いたことはあるけれど」
そ…っと、夜着の下へと滑り込むのは、左手。
「縦に敷いたのは、ついぞ経験がない」
云うなれば、あれは…
布団の直列つなぎではあるまいか?
「…文遠!」
払いのけようとした手を、逆に掴み締められ、気がつくと…奥様は、旦那様の腕のなか。
「……!」
「声を立てると、奉先殿が目を醒ます」
耳許の、低い囁きに、奥様は、抗議の声をあわてて呑み込んだ。
つ……
脣は、首筋を伝い、舌尖は、夜目にさえ白く冴えた肌膚に潜められた鎖骨へと、届く。
「…はぅ」
判っていて、苛める。
触れられただけで、息が止まりそう。
手のひらに、踊らされる。
怺えもならずに、噛み締める歯列から、それでも…声は、軋む。
いや…
子どもめいて繊く頼りない、つむいだ絹糸を夜の色に浸したかに黒い髪が、さらら…戸惑うように、肩先に揺れる。
宮城の、深い緑が眼下に広がる四階の窓には、路上を照らす常夜灯の明かりは、差し込んでは、来ない。
薄ら闇に、それでも。
男の、ひと離れした視覚は、愛しい者の表情を、捉える。
眉根を寄せて、苦痛に耐えるひとのように、固く閉じられた瞳。
まっすぐに瞶められたなら、頭のなかが白くなるほどに気持ちがいい…その、瞳。
「悪ふざけは…たいがいに……」
つよく…よわく……
味わい尽くすかに…動きは、熄むことを、知らない。
柔らかな、霧雨のように。
密やかな、驟雨のように。
ただ一点に注がれる、舌先の愛撫は、執拗さが嫌悪へ変わる瞬間を、巧みにすり抜けて、意識を混沌へと誘う。
器用な男は左手のゆびを奥様のゆびに絡めたままで、いつのまにか、奥様を一糸纏わぬ姿に戻してしまっていた。
「悪ふざけ?
…いつだって真面目なつもりなんだがね」
身動きもならず。
奥様は、ともすると甲高くせり上がりがちな声音を、かなりの努力で押さえつけ、旦那様にせめての抵抗を、試みる。
「どこの世界に…
自分の身も危ないという場合に呑気に情を交わそうなどと思い立つ物好きが…」
「あんたとだったら四六時中でもしていたい」
もうすこし…
この部屋が明るかったなら、邪気のない、あどけないほどの無防備ゆえにかえって悪辣にさえ見える笑顔を、奥様は網膜に焼き付けることが出来たのだけれど。
「なにを好き勝手な…
こちらの身がもたぬ…」
「想像は、してみたわけだな」
「……」
こ、の。
恥知らず!
「文遠…」
「ん?」
「重い」
「あんたが上になってくれるならどいてもいいのだが、ね」
「…莫迦」
クレームはKISSで封じる。
…ずるい、男。
夏の、短夜の、明けるを惜しみ…
男は…
掌中の珠とも愛しむものを、手さぐりに、する。
血が通い、温もりのあることを自身に納得させ、安心したいがために。
所有欲と。
独占欲と。
征服欲と。
顕示欲と。
いくらうわべを取り繕ったところで、つまり…『愛』のなかには、幾許かの背徳と…悪徳とが、隣り合わせに同居している。
「奉孝…」
爪の先で、軽くなぞりあげただけでも、その爪の痕が赤く糸を引いたように走る、繊細な肌膚は、淡く露を含み、情念に、濡れていた。
「…欲しい」
もう、これ以上は待てない…と。
泣きだして、なんらの咎さえありもしない身に赦しを請うまで、男は…情欲を飼い殺しに、玩ぶのが、得手だった。
淫らごとの甘さに、溺れる。
我ながら……
どこまでも、混沌の坩堝に、蟻地獄の周到さで獲物を引き込みながら、それでも醒めきっている脳裏のどこかで、男は自嘲する。
因果な、ことだ。
惚れ抜いた存在が、理性を手放し、なにか…別の生き物へと変容するのを確かめてからでなければ、恐ろしくて……穢すことができない。
甘脆な業苦に、責め苛まれるのは、果たして、どちら……
「……ぅ」
聞き耳を、立てている。
真夜中が、千の眼で、見つめている。
つがい。
嵌め。
交わり。
貫く。
極まりの、涯てを。
誰が見ていても、かまわない。
互い…互いのもどかしさと切なさを。
繋ぎ合わせて…
ひとつに、重ねて。
生の過剰は、須らく、死の寂滅を、夢見る。
エロティシズムとは、挫折する運命にある。
||モドル||
『滔天廻路:上演作品目録』||
ススム||
製作年月日:2005/08/16
文責:市川春猫