『奥様は軍師:番外編〜君と夜明けのコーヒーを』
「な…なんでもありませぬ」
取り立てて、小柄…と云うわけでもないはずの奥様が、はるかな高みから見下ろされて、返答に窮し、たじろいでいる。
これはこれで、天下の奇観ではあるまいか、と、旦那様は内心に思う。
…思っただけで、そんなことを口にしたら、尻尾を踏まれた子犬のように奥様が反論するのは目に見えているので…ないしょ、ないしょ。
手にした湯飲み茶碗が、まるでおままごとのおもちゃのようだ。
それを、すい…と、奥様の目の前に差し出して、呂奉先は、云った。
「お、お、おかわり」
どうするつもりなのだ!
「なるように、なるものだ」
「……その楽天主義を、すこし改めようという気には、ならぬのか?」
「奉孝」
「なんですかな」
「心配ばかりしていると、小じわが増えるよ」
「そのような忠告はご無用に願いたい!!!」
旦那様の顔を立て、呂奉先を匿ったなら、それは…曹主席への裏切りとなり…
曹主席を第一に考えたなら、旦那様の立場は危うく…よくてその職を追われて路頭に迷い、下手をすれば犯罪者の仲間入りだ。
張文遠と曹孟徳。
二人の間で板ばさみの奥さまは…大煩悶で……夜も眠れないというのに。
「文遠…!」
長いこと、代々の内閣が問題の解決を先送りにしていて、ほとんど忘れ去られていた法案の審議が引き金となり、政界の動きが慌しく風雲急を告げ始め、そのあおりで曹孟徳の懐刀…陰の実力者と目される夏侯元譲は、このところ、さっぱり家に帰ることの出来ない日々が続いているようだった。
安普請のアパートで、隣に人が居たなら、その気配や話し声はおぼろげにでも、伝わってくる。
今夜も…
夏侯元譲は議員宿舎の曹孟徳に割り当てられた一室に詰めていることだろう。
奥様には、夏侯室長の目がここに届かないのがせめての救いのように、思われた。
……曹主席に嘘はつけても。
夏侯元譲には、誤魔化しは通用しない。
もしかすると……
…室長を悲しませることが、いちばん…怖ろしいのかもしれない。
「あなたというひとは…!」
||モドル||
『滔天廻路:上演作品目録』||
ススム||
製作年月日:2005/08/16
文責:市川春猫