『奥様は軍師:番外編〜君と夜明けのコーヒーを』








 曹孟徳に縁あって見出され、護衛官となってその身近に仕えることとなった経緯については、後日に改めて語られることもあるだろうが、それに限らず、張文遠という男の人生の越し方には、謎が多い。
 語らぬことに敢えて立ち入るような、物分りの悪い無粋な人間が幸運にも身の回りに存在しなかったおかげで、張文遠はおのが身の上について、沈黙を保ったままに、今までその流儀を守り続けていた。
 奥様にしたところで事情は同じで、寝物語に二度三度、旦那様の過去を尋ねたきり、自分と知り合う以前のことは、ほとんど、何も知らないに等しい。
 ただ…
 曹孟徳に拾われる以前、似たような生業…それ以上に危険な任務を請け負う、とある組織に身を置いていた…誰の口から囁かれた噂かは知らぬ…まことしやかに語られていたことは奥様の耳にも聞こえていた。
 ただの憶測…と、真偽のほどを確かめたこともなかったのだが……



「千に三つは真実がある…」



 ……むかし、夏侯室長が真面目な顔で、そう云ったっけ……



 リヴィングの片隅で、張文遠の愛猫三匹が、おっかなびっくり目を見開いて、見慣れぬ客人にちらりちらりと視線を送っている。
「…文遠」
 客が来たらお茶を出せ。
 これもまた、夏侯室長の教えである。
 この家にある、とっておきの上煎茶を、習ったとおりの作法でもって、湯の温度にだって気をつけて、茶菓子と一緒にお供え…もとい、給仕してから、郭奉孝は…旦那様を有無を云わせず書斎という名の物置部屋に引っ張って行き、旦那様の真意を質そうと、した。
「…あの人物とあなたにどのような関わりがあるかは、訊かぬ」
 …しかし。
「お尋ね者を匿ったとなると、われわれも同罪なのだぞ」
「…恩義があるのでね」
「曹主席に恩義がないとは云わせぬ!」
 思わず高く跳ね上がった声を、あわてて潜めて、奥様は、云い募る。
「あなたは犯罪者になるつもりなのか」



 ど、ど、ど、どうした。



 築三十数年を経て、四階建てであったため、エレベーターもない、日当たりだけは申し分ない古いアパートの天井は、さほどに高いものではなかった。
 猫三匹と、ほとんど身ひとつで郭奉孝の住み暮らしていたこの部屋に転がり込んできた張文遠は、慣れるまではよく、玄関の出入りをするときに頭をぶつけていたけれど…旦那様の連れて帰ってきたこの男は、立ち上がれば天井すれすれの背丈があって、もはや、奥様の脳中に描くヒトの概念からは遠いところの存在だった。
 これほどの人物が、人目に付かないはずもなく。
 ましてや…
 このアパート…家主がマンションと言い張ろうとも、断固として、アパート…の住人には、曹孟徳の後援会事務所に深い繋がりを持つ人物が多い。
「今頃は、曹主席の耳に届いているはずだ」
 ……曹孟徳を死地にまで追い詰めた男……



 呂奉先がここに居る、と。








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製作年月日:2005/08/16
文責:市川春猫