『君知るや、我が心。』
あれは…
三日前の、居待ちの月が細くかそけく西の空に低い頃合のこと。
半月だろうと半年だろうと、我が家と名の付くものには寄り付かない郭嘉は、あちらこちらと目新しい娼館を渡り歩き、懐具合が淋しくなれば、けして自分を邪険にはしないごくごく近しい人物の屋敷にあがりこみ、なぜだか不思議と郭嘉のような人間は、ある種の女の母性本能を刺激するのか…主人よりも大切に大事にもてなされ、気が向けばふらりと居なくなる身勝手さすら、寛容されていた。
許昌のもっとも繁華な大路の片隅で、酔いが廻ってそのまま生き倒れと選ぶところのない状態で惰眠をむさぼっていた郭嘉を、拾って保護したのは、張遼だった。
生粋の軍師がおとなしいのは、眠っているときだけだ。
目が醒めたなら、寝起きの悪い郭嘉は、ご機嫌斜めの八つ当たりで、目に付いたものを相手に自分にだけ筋道の通った奇妙な言いがかりをつけるのが、常だった。
「あなたのような八方美人を見たことが、ないぞ」
辺りを見回し、自分の現在の居場所が、几帳面に整えられていた寝台の上であることを確認し、さらに…意図せずしてすっかりその間取りを記憶してしまった家の寝室であることを認識した郭嘉は、緩慢にけだるい動作で上半身を起こすと、芯を短く切り詰めた灯火のしたで竹簡に目を通していた男を、見やった。
寝台とは反対側の壁際に、飾り棚の代わりとして置かれている小卓に、片肘をつき頬杖にして、背もたれのない丸椅子に腰掛けた張遼の半顔を、暖かく柔らかな橙色の炎の揺らめきが彩っていた。
季節は、初夏の頃合い。
地上にわだかまった、熱を孕んだ大気が、しだいしだいに飽和して雨を呼ぶには到らずに、許昌の都を覆い尽くしている。
「…目が、醒めたかね?」
軍師とは…
突き詰めるなら、いかに効率よく人を殺すかを考えることが、商売だ。
戦において、無尽蔵ではない人的資源を減らさずに済むならばそれに越したことは、ない。
「いつだって、だれにだって、親切で優しい」
けれど。
干戈を交え、個々としては弱い点のような存在をひとつに纏め上げ、より以上の力で敵を圧倒しようとするとき…犠牲はやむないものとなる。
「ひとになにかをしてやって、見返りを求めない人間など、居るものか」
どこからともなく忍び寄る夜風に、火影が躍ると、それに連れて張遼の表情もわずかながらに変化して、見えた。
だから、あなたは信用できない。
|| モドル|| 『滔天廻路:上演作品目録』|| ススム||
製作年月日:20:36 2005/06/09
文責:市川春猫