『君知るや、我が心。』




 押しも押されぬ…位人臣を極めるための階梯に、もはや残すところ幾許もない曹操の、草莽の股肱として、四天王の筆頭に挙げられる夏侯惇の身辺は、いつも、清廉と云うにはあまりの質素さで、身を飾り妍を競う妻妾の姿もなければ、小間遣いの婢すら居宅のうちには見かけないという殺風景で、独り身の気楽さに、当人はすっかり満足しており…だから。
 招かれもせぬのに、ふらりふらりと…似たような境遇の、ひとさまの都合などあまり顧みないような顔ぶれが、気まぐれにやって来ては夏侯惇の手を煩わせ、居心地のよさについ長逗留をすることも、まれではなかった。
 妙齢の、美女の屋敷であるなら、いざ知らず。
 気が向けば冗談のひとつも云うが、これと云って愛想のいい男でもなく、話題が豊富で座のとりもちが上手いわけでもない。
 いつも、なにか…苦いものでも飲み込んだかに謹厳な表情を崩さずに、確かに…抛っておけばどこまでも常軌を逸してゆく悪童がそのまま大人になったような曹操配下の文官武官を面倒見よく統率して、日ごろの生活態度は彼らのお手本となるに十分な品行方正さであった。
 だれよりも…
 その心根の奥底に、少年の生一本さを内包し、本人が多分、永遠に気づくことがないであろう可憐をひそめた人柄を、もっとも好ましいものと愛着していたのは……付き合いの長さにおいて他を懸絶する曹操であった。
 が。
 その曹操と精神の在りようにおいて、奇妙に波長の一致する郭嘉もまた、夏侯惇を敬愛している…と云う表層の意識の裏側で、無意識のうちにさらに深い思慕の念を寄せていた。
 なんとなれば…
 意地っ張りの見栄っ張り、天邪鬼で毒舌家、手前勝手で我侭で、歩く傍若無人にして考える唯我独尊、戦う思考機械…の、森羅万象を識ると世人に畏怖される…三度の飯より戦好き……が、素直に心の裡を曝けだして甘える唯一の人物が夏侯惇であるという事実に照らし合わせると、郭嘉が隻眼の…この『むさくるしい母親』に、特殊の感情を抱いているとしても、何の不思議もないことであった。
「おまえは…」
 なくて七癖。
 当人としては辛口な論評をするとき、光のあるほうの目をわずかに見開いて、相手を見据えると、一息の呼吸で間合いを決めたあと、この男は、端的に事実を言い当てる。
「頭がよすぎて、莫迦だ」
「…承服しかねるご意見ですな」
 背筋を反り返らせて、郭嘉は上唇を舌尖で左から右に撫でると、早速に反撃を開始した。






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製作年月日:20:36 2005/06/09
文責:市川春猫