『君知るや、我が心。』
窓辺には、もう…月の姿はない。
よくよく目を凝らしてみると、暗黒のその奥に青が沈む闇の色を背景に、庭…と云うよりはすでに原生林に近い夏侯家の庭の、それよりもまだ向こうに、鬱蒼とした枝振りの喬木の連なりが、影絵のように星明りに浮かび上がっていた。
曹操が許昌を留守にして、十日あまり。
それをいいことに、日ごろの職責を擲って、夏侯惇が渋い顔をするのもかまわず、三日ばかり、夏侯邸に郭嘉は入り浸っている。
落ち着きもなく、右に左に…居場所を定めず動き回る郭嘉は、子どもなみの忙しなさで、夏侯惇はたしなめる面倒を思い、そのまま好き勝手にさせていた。
「……奉孝」
酒は嗜む程度ながら、それゆえに、隻眼の男の口にする酒は、群を抜いた絶品であった。
螺鈿を散らした黒檀の、書き物をするにも食事を摂るにもほどのよいおおきさの卓子の上には、遠い西の果ての異国からもたらされた葡萄酒が、これもまた、遥かな道のりを経て運ばれた硝子の器に満たされていた。
もっとも…その半分以上は、郭嘉の咽喉の奥に流し込まれていたけれど。
引き換え、酔えればいい…と、居直りに近い投げやりさで、気概だけは斗酒なお辞さぬ……つもりでいる生粋の軍師は、実のところ、酒の味など、意に介したこともなく、酒の味に違いがあるかさえ、気に留めたことなど、なかった。
「なんですかな」
舌に珍しい血の色をした酒に、郭嘉はほろ酔いの加減を超えて、かなり、ご機嫌の様子だった。
官渡における袁紹との決戦の帰趨は、数の上で圧倒的な不利だったにもかかわらず、天と地と…人の利を得た曹操のもとに決せられ、ひとつの時代の終焉を、満天下に知らしめることとなった。
最高の緊張のあとには、最大の弛緩が訪れる……
戦捷を祖霊に報告するために……表向きはそのような名目で、許昌を留守にした曹操から、不在中の一切の全権を委任されたのは、夏侯惇だった。
当然同行を命じられるものと旅装を調えていた夏侯惇に、持ち前の無邪気なまでの素通しのよい明るさで、曹操は、云った。
『惇は留守番だろ?』
抛っておけば何をしでかすかわからない連中の面倒を、惇以外、だれが見るんだ?
『おまえしか、いないだろ?』
――阿瞞……と、呼ばれていたころから、何一つ変わらない笑顔でそう云われたなら…
それは、殺し文句。
|| モドル|| 『滔天廻路:上演作品目録』|| ススム||
製作年月日:20:36 2005/06/09
文責:市川春猫