『愚かなり、わが心。』
「だったら、な?」
「さ…触るな!」
男の躰を押しのけて、寝台から飛び降りようとした郭嘉を、猫の仔のようにつかみあげると、ゆるく胡坐に組んだ足のあいだに郭嘉の背を抱くように包み込み、言を継いだ。
「もっと自分を大事にしろ」
――こいつはきっと、莫迦だ。
「……」
――なんてありきたりな、科白を平然と。
「…骨身に沁みたか?」
――優しい声で、云うのだろう。
「…殺してやる!」
――苦いほどに、甘く。
「脈絡のない科白だが、本心か?」
――蜜の味のする、毒のように。
「いつか。
天下が凍てつきただ遠望しているだけしかない戦の…最高の死地において、俺の軍略の決死の手駒として使ってやる!」
「望むところだ」
愚かなり、わが心。
床に散らばった、郭嘉の衣をかき寄せて、着せ替え遊びの子どものように、着せ掛ける。
もはや、余力の残っていない郭嘉は、されるままに、おとなしい。
「俺にもひとつ、訊かせてくれ」
「なんなりと。
出し吝しみは、しないぞ」
「なぜ、やめた」
「…?」
「情を遂げずに、なぜ、途中でやめた!」
逸り、猛るものを宥めることなく、欲望の行き着く先を目前にしながら、自制の歯止めの利く余裕を、自身の経験に照らし合わせて、持ちえたことなどなかった郭嘉には、張遼の土壇場に及んでの淡白な引き際が、不可解に映った。
「…てっ」
気の昂ぶったときに見せる、反り返ってものを云う癖がでて、期せずして、郭嘉は張遼の顎に頭を打ちつけた。
「嫌がっているのに、無体なことはできないだろう」
「よ、く、も、抜け抜けと!」
「暴れるな」
「うるさいっ」
「…惚れているんだよ」
「………!!
殺す!
今すぐ、殺す!」
「物騒な男だなぁ…」
肩に手を置かれ、ゆびさきが鎖骨に触れた瞬間、郭嘉は躰の裏側を熔けた金属が奔りぬけるほどの衝撃に、怺えきれず、声をあげた。
「はうっ……」
死ぬのなら、ああして死ぬのも悪くないかもしれないな。
「張遼よ」
「…ん?」
「今すぐ決断せよ。
俺をこのまま家に帰すか、それともあんたが床のうえで寝るか」
「どちらの選択肢も、好ましくないな」
「戦場では、生きるか死ぬか、二者択一よりありえない」
「だが…
ここは戦場ではなく、曹公の軍議の席でもない」
だから…
「代替案として、俺があんたを抱いて寝るか、それともあんたが俺を抱いて寝るか、ふたつにひとつの策を献じるが、どうだろうか?」
「眼を開けたまま寝言を云うな!」
夜を徹し、ちらちらとかすかに揺らぎながら灯っていた油皿の灯心が燃え尽きて…
闇の色が朝の光に薄まり、重く澱んだ空気が新鮮さを取り戻しつつあった。
小鳥のさえずりが独唱から重唱にかわり、往来を行く人の交わす挨拶の声が聞こえてくる頃合いになった。
にもかかわらず、部屋に聞こえる物音は、安らかな寝息がふたつ。
いつしか甘い痴話となし崩しになった言葉の応酬が、どちらからともなく途切れ、睡魔には、勝てず。
愚かなリ、わが心。
天与の生を、未だ十全に生きることなく、死の果てを夢見るか。
ふたり…
たがいに抱き合いながら……
祈る言葉は、何もない。
|| モドル|| 『滔天廻路:上演作品目録』|| ススム||
製作年月日:04/11/07
文責:市川春猫